見出し画像

湯木慧さんの四谷天窓、無観客配信ワンマンライブ を観て…

アーカイブも残っていて、12/5まで?多少ネタバレ的なところもあるので、観終わってから時間あるときにふーん、くらいに読んでもらえれば。

ライブはとても良かった。言葉を真摯に歌う姿はとてもかっこよかった。
ただ、とにかく情報量が多すぎて、終わった後しばらく無の状態というか飽和状態だった。
のだけれど、思ったことをメモしておかないといけないような気がして、頭に文字が浮かぶままに文字を打ち込んでいるが、頭の中が酸欠状態になっている感じはする。

正直書き方のテンションも変だし、身勝手なものだし、こんなもの公開するなんてどうなのか、とも思うけれど、言葉は生ものだし後付けで編集するより書いた勢いで公開しておこうと思って。正しいかはわからないけれど。
誤字脱字とか、微妙にニュアンスが違ったりするところもあると思うけれど、何かしらのところで連絡をいただければ修正していきたいと思います。

とりあえず、深呼吸…。
深呼吸じゃ…。


なんだかんだ、湯木慧さんを知ったのが遅かったりタイミングの関係で、ライブは初めて観た、と思う。

四谷天窓は自分にとって大事な場所、と過去にも呟いていた。
第二の故郷にも近しい場所。
ライブ中、スマホ持ってきたりお水を飲んでねと伝えていたり、というスタッフさんのサポート場面が見られて、こういうところで愛され愛していたんだなと思う。


それが失われる、という状況の中で行ったライブはとにかく情報量が多くて、参加した人の多くが虚無になったのでは、と思う。

楽曲の構成は、立った状態での1部からインターバルを挟みステージ上であぐらの状態とピアノを弾いた2部で、湯木慧と四谷天窓の始まりから今に至るまでの体感するようなものだった。
過去を追憶しながら、あるいは直近の出来事を回想しながら、四谷天窓のステージで光に照らされながら、ギターを抱え、地面に座り、ピアノを弾いて一曲一曲に嘘偽りがないように、言葉を確かめるように歌っていた。

ライブ配信を見ながら思ったこと

言葉と一体化している人だと。
歌っている時の表情や声の出し方が、まるで言葉に吸い寄せられるように、言葉の持つ意味を間違えて伝えてしまわないようにひとつひとつの言葉に対して向き合い、身体の中からというか言葉そのものになって歌っていると感じた。

ただその一方で、MC中に「自分自身に対して歌っている」と話していたように、ときにそれは歌う自分の身体に対して鋭利に突き刺さるものになってしまうのかも知れない。

1部の曲や2部の最初の方は、自分の中から溢れるものを伝えようとしていると見えたし、小さい身体がとても大きく見えた。
2部で『スモーク』を歌っているときには、歌詞が今の自分の心情に対して嘘の言葉になる、自分から出る真の言葉ではないから伝えられない、という思いがあったのかどうかわからないが、言葉と自分の心の中での少し揺らぎがあったのではと感じる場面も見られたように思う。

いろんなところで話している。
『スモーク』を作る過程で"わからない"をテーマしたから、とてもつらい中で曲を作ったと。
ましてやこのご時世、普通に暮らしているだけで精神的なダメージを受けるのに、曲を作るために潜ってしまったらそこから戻ってくることも大変だと思う。そして、自分が大切にしたいと思っていた場所がなくなってしまう、ということに対しての衝撃もあったと思う。


いったいなにを伝えたら良いのか、誰になにを伝えれば良いのか。


ライブを聴いていて、わかってる、という言葉が気になっていた。
『スモーク』の歌詞を抜粋すれば、

信じるものは心にあるだなんて
わかってる、わかってる、わかってるけど
信じるものは心にあるだなんて
わかってる、わかってる、わかってるから

そう歌うことで、自分にわからないをわかったように思わせるように歩いてきたのかも知れないとか思ってしまう。
最後の歌詞は"わからないから"で終わっている。

『ハートレス』の歌詞を抜粋すれば、

大きな世界だなんて、わかってる。わかってる。
小さな声も出なくて、わかってる。わかってる。
目覚めた途端に不安になって、心は潰れて立てなくなった。
命がなんだと、わからなくなって
僕は空気になる。

この頃からわかってる、と自分を言い聞かせてきたのかなと思ってしまう。
わかってるとわからないの間で、もがいてきたのかも知れないとも思う。

その中で言葉を嘘偽りなく、自分の言葉としてきちんと届けようとしているから、聴く側にも届いていたと思う反面、自分の中にも突き刺さっていたのでは?と思う。自分の言葉で自分を苦しめていたのかもしれないと思う

個人的には、とてもエゴかもしれないけれど、"ごめんね気がつかなくて"、と思っている。

『狭間』を聴いたとき

そうした感情を抱えた中で聴いたからか、ひとつ一つの言葉がまるで意味が違うものとして聴こえてきてしまったのだ。
どこかで、湯木慧本人に歌っていると言っていた。そう思って聴いていた。
けれど、改めて色々考えて聴いたときにそれはとても心がギュッと掴まれるような、苦しさとやり場のなさと、行き場のない想いがぐちゃぐちゃに身体中を巡った。

これは僕と僕の問題だ
自問自答の毎日だ
間違いなどないのにさ、答え合わせをしたがって
僕と僕の問題だ
強くなるための真実だ

なんてこった、こんな世界で生きていたのか、となんだか泣けてきた。
「しなきゃいけない」、と自分を演じながらもがいて、それでも曲を作り言葉を紡ぎ、そしてそれを伝えていたのか、と。

どうしたら良いのか、この想いの行き場をどこへ向けて、どこにしまい込めば良いのか。

と思いながら聴いた、最後に歌った『選択』。

とても、とても、あたたかい曲だった。
「天窓は照らすもの」、と話していたようにあたたかい曲だった。
まるく柔らかな緑色で包まれるような曲だった。

同時にとてもさみしい思いにもなった。
懐かしい誰かとお別れをするような気持ちに。

「答えは見つかってないけれど、考え見出した」と曲の前に話していた。
確かに、この曲にはもう湯木慧としての選択の答えが出ている、と感じるものもあった。

ふと思う…。

楽曲を歌うとき、発表するとき、自分に答えを出してから歌っているなと。
確かに自分の言葉に嘘をつかないために歌うためにも、答えが出て曲ができて、という順番になることもわかる。曲ができて答えができてかもしれないけれど。

でも、時々はもがいて苦しんでいる時の姿だって見せて欲しいとも思う。
とてもエゴだってわかっているけれど。
いつだって強い自分を見せてなくて良いから、言葉を嘘偽りなく伝えなくても良いから、迷いながらだって迷っている姿をときには見せて欲しいと思う。

これからの選択

これからどんな選択をして、どんな道を歩いて行ったとしてもそれを否定するなんてことは絶対にない。残念だけど…なんて言わない。

自分を愛して、信じて、幸せな道を歩いていって欲しいと思う。

一つだけ確かに言えることは、自分の人生の中で湯木慧という人に巡り会えて、そして創られる作品を観たり聴いたりすることができた、それは宝物だということ。


もしよければ、読んだ記事のコメントへ好きな音楽やオススメのコーヒーのこと等を書いて頂けたらとても嬉しいです。