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7月の終わりに初めてしっかり聴いた、あいみょんの音楽の話

うんざりするような暑さが続いている夏のある日。
テレビからもう少しで、夏の高校生たちの熱い闘いの音が流れてくる頃。

外では蝉の鳴き声と、夏の青空にモクモクと広がる雲と、どこかでボールを打つバットの音が聞こえてくる中、少しだけ涼しいお家の中でふと目に止まった音楽をかけていた。

「AIMYON 弾き語りLIVE 2022 −サーチライト− in 阪神甲子園球場」

多分、あいみょんというアーティストの音楽を、これほど明確に聴こう、と思って聴いたのは初めてだと思う。
もちろん存在は知っていたし、テレビで流れていた音は知っているし、小さい子から聴いてないの?と教えてもらった曲や、友だちにオススメされた曲は知っていたけれど。

その時は、そんなアーティストもいるのね、なんて思ってあまり真剣に聴いていなかったと思う。

心の奥底のどこかで、流行りの曲はあまり聴かない、なんてどこか意固地になっている気持ちがあるのは知っているけれど…。

ライブ音源の、空間オーディオという配信のスタイルにちょっと惹かれて聴き出してみたら、しばらくずっと聴き回していた。
あれ、あいみょんってこんな感じだったけ、という驚きと、その振り幅の揺れ具合にどっぷりハマってしまったのかもしれないとか思う。

小さい頃からフォークソングという類の音楽は聴いていたし、自分の奥底で眠っている音楽的な感覚の原点はそこにあるような気もしているけれど。
あの雰囲気の音楽を聴くと、どこか身体が落ち着くというか、しっくりくる感覚になる。

そういえば、昨年に吉田拓郎が引退すると話していた年のテレビ番組で、あいみょんが共演していたことをふと思い出した。

最初に聴いたのは、テレビから流れてきた「君はロックを聴かない」だった気がするけれど、あぁ今の若い人がこういう形で唄うことってあるんだなぁ、という軽い印象だった、と思う。

現代の人が昭和や大正時代の文化に回帰している空気は何年も前から感じていたけれど、現代の形で昇華して歌うことってあるんだなぁ、という驚きと嬉しさとかを感じていた。

その後になって、映画の主題歌の作詞作曲を担当している、ということをネットニュースで知った。
グループ魂はデビュー当時の某音楽番組で見たときに、好きなことを楽しんで弾けるようにやっているスタイルが好きだったし、阿部サダヲさんは素敵な人だと思うのだけれど。
この曲は割と好きで、当時結構ぶん回すように聴いていた気がする。
……あいみょん、という認識は薄いままに。

余談だけれど。
港カヲルって皆川猿時さんだったらしい…。
全然気が付かなかった。

https://www.g-tamashii.com/bio/


その後、小学生の子どもたちと関わることがあったときに、一人の子がマリーゴールドの歌詞を口ずさんでいて、"それあいみょんの曲?" と訊いたのを覚えている。
周りの子どもたちを巻き込んで、"あいみょん好き、あいみょん知ってる?" と質問攻めにされたときに、"知ってるけど聴かないなぁ"、と答えた後にすごく驚いた顔をされたのも覚えている。

そういえば、"TikTokやってる?" と訊かれたような気もするけれど、あの時は、子どもたちの感覚をもしかしたら見失っているのかもなぁ、と思っていた気がする。


そのころ、友だちに「生きていたんだよな」を何かの拍子に教えてもらって聴いた時は、あまりの衝撃で結構尾を引いていた気がする。
何のきっかけかは覚えていないし、もしかしたら何かのニュースがきっかけだったかもしれないけれど。

こうして運命的に出会う曲は確かにあって、自分の忘れていた感覚と、もう何年も前に感じて蓋をしていた記憶に触れ、再び蓋を開けてまた向き合うことは折に触れてあるのだと、思う。
本当に。

好きなアーティスがやっていたラジオの中でカバーをしていたのも覚えているけれど、あの年代でしか表現できない、体現することのできないものはあるのだなと思う。

もちろん年齢を重ねるごとに、いろんな経験を経て幅は広がるし、表現の仕方も彩りができるし、より研ぎ澄まされていくし、それは良いことだけれど、20代前後で表現できるそれとはまた違ったものになる、ような気がしている。


確かそのころに、少しあいみょんの曲を漁っていて、、
……というかYouTubeの自動再生に力を借りて。
マリーゴールド」とか、「貴方解剖純愛歌〜死ね〜」を聴いていて、その緩急の差みたいなものに、思わず笑ってしまうというか、一体全体この人はどんな人なんだろうとかを漠然を考えていた気がする。

そういえば、タモリ倶楽部に出ていたけれど、謎は深まるばかりというか…。


そんなことを考えていた流れが、今回の音源をしっかり聴いたことで、うまくつながってきたのかもしれないとかは思う。
弾き語りというスタイルが、より深くゆっくりじっくりと聴き込める感じだったのかもしれない。

目を閉じて、その音に耳を澄ませると、だんだんとはっきりと想像上の甲子園の球場の景色が見えてきた。

もちろん甲子園は一回も行ったことはないけれど、確かに自分がそこにいて、周りに誰かがいる体温を不思議と感じた。
灯りに照らされた中で歌っている姿が、瞼の裏にじわっと浮かんできた。

ちょっと間違えた瞬間のはにかんだ笑顔とか、少し潤んでいるような姿とか、鋭く尖った武器のような言葉を身体から全力のエネルギーで届けている姿が見えて、なんていうか、あいみょんという人が持っている感覚の一端に触れた気がした。

いろんな色を持っていて、何かの色が強く出るというよりは、たくさんの色のどれもが輝いているような気がする。
変幻自在に、自由に、ひらひらと舞いながら、それでいてその色に染まった時は一瞬で色濃くその姿を輝かせるような。

その時々の年齢や世界の空気でしか感じ取れないものを、見ることのできない景色を、身体中で吸収して、それを曲の中に落として、歌詞の中に記憶して、表現しながら唄っていく。

それを言葉では等身大の表現というのかもしれないけれど、どうも自分の感覚ではこれは等身大という言葉ではないような気がしていて、なんと表現すれば良いのかを悩んでいるのだけれど。

等身大にしては鋭利すぎる感性だと思うし、かといってあいみょんらしいという言葉を使うには、あいみょんのことを知らなすぎる。

その瑞々しく鋭利な感性と、豊富な言葉の数々と、奥底に見え隠れする音楽の原点を抱えて、あいみょんというアーティストが奏でる音楽は、魅力的だと思う。

忘れた何かを思い起こすし、蓋をした記憶や気持ちに再び開いて向き合う時間をくれるし、硬く考えている自分の頭を柔らかくしてくれるし、それでいてもっとたくさんの感覚を研ぎ澄ませていかねば、と自分のあり方を問われている気がする。

そんな音楽だからこそ、たくさんの世代に聴かれ、愛されるのだなと感じた7月の終わりの話を今更。


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