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冨岡理森 人生の振り返り

強烈な不安。
勢いよく拍動する心臓。

毎日が災害発生時のような感覚。
焦燥感が行動の全てを支配していた。

視野が狭まる。
集中できない。
もっと多くの情報を処理すべきなのに。

そもそも、「集中力」などという力が、本当に存在するのか疑問だが……。

昔から劣等感の塊だった。勉強も運動もできず、コミュニケーションも苦手で、自分の躰にもコンプレックスだらけ。怠けてやらないのではない。なぜかうまくできないのだ。恋人ができても嫌われることが怖くて、嘘に嘘を塗り重ねた結果、何度も自滅した。

僅かに誇れたことは、絵とピアノだけだった。学校の休み時間に、絵を描いたりピアノを弾いたりすると、クラスメイトに注目されて嬉しかった。でもそれは、幼い頃からやっていたから少し自慢できたというレベルの話で、才能と呼べるほどの実力でもなかった。

誰かに、承認されたい。

美大に進学した私は学費が払えなくなり、二年生の時に退学。直後に、“画家として生計を立てる”という目標を立てた。職業として明らかに不安定な選択肢だし、達成まで何年かかるのかも分からなかったが、そのために絵を描いている時間だけは幸福で、直感的に今の自分に必要な事だと理解した。

作品の多くは、“機械でできた人間”がテーマで、取り憑かれたように何度も同じような絵を描いた。今思えば、“自分は人間に擬態する機械人間だ”という幼少期からの妄想を具現化したかったのだろう、と納得できる。

脳に障害でもあるのかもしれないと思って、メンタルクリニックに通ったこともあった。しかし、この時は特に病名がつくことはなく、貯金も尽きてしまったので、行かなくなってしまった。

何かの才能がなくても、感情を共有できる人さえいればいくらか楽だったと思う。コミュニケーションが苦手だった僕に、悩みを打ち明ける友人はいなかった。母は、僕に「甘い」とか「頑張ればできる」と言った。これ以上、どう頑張ればよいのだろう。

幼少期から、母に甘えたり、褒められたりした記憶がない。共感された記憶もない。代わりに、怒鳴られ、否定され、馬鹿にされた記憶はある。殴られた記憶もたくさんある。それが原因かどうかは知らないが、私は今でも素直に感情を表現したり、相手に共感したりすることが苦手だ。そもそも方法も不明であるし、世の中には自分と共感し合える人がいるという感覚がない。母の説教に言い返すために、屁理屈の能力だけが向上した。早く家を出たかった。父は感情を表に出さない人だったから、深いコミュニケーションをとることは少なかった。

大学を退学してしばらくは、バイトをしながら実家で画家活動を続けた。しかし売上は微々たるもので、一人暮らしには程遠かった。貯金をしようにも高が知れている。画家を辞めて就職することも考えたが、就職をしたら唯一の心の支えだった絵を描く余裕がなくなってしまう。既に精神的に疲弊しているのに、母のいる実家で生活を送りながら、週五で仕事を頑張る、そんな生活に耐えられるとは到底思えない。想像しただけでキャパオーバーだ。相変わらず相談できる友人はいなかったし、九年間も続けたピアノはもうまったく弾けなくなっていた。これ以上居場所を失ったら、何のために生きているのか分からない。

母からの精神的な暴力は、日によって程度に強弱があるものの続いていた。そもそも、暴力であるという自覚はないようだ。母は今も昔も、ただ自分の不安の埋め合わせに必死であった。

死にたい。否、生きたい。
死にたいという言葉は、
「できれば幸せに生きたいが、生きていても苦しいことしかない」
という意味の婉曲表現である。苦しいことしかないのは、現実世界のどこにも居場所がないからだ。

人との関わりを増やすために、展示やイベントに足を運ぶようになった。そして、2022年の秋に恋人ができた。決心して事情を話したら、とても親身になって相談に乗ってくれた。

その後、生活保護を受給することで、実家を出て生活できる可能性がある、という話が出てきて、後日無事に実家を出ることができた。明日で、家を飛び出して三週間になる。通院と服薬も開始した。今まで以上に金はないし、やるべきことも山積しているけれど、なんとか生きている。

これからの人生は、劣等感に支配されることなく、ありのままの自分で生きたい。自分の感情を大切にすることが、相手の感情を大切にできる人間になるための第一歩だと信じている。

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