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サンタクロースは居る

2019年、12月25日。クリスマスの朝。神奈川と東京の狭間にある、アパートの一室。私は、かつてあの寒い岩手の家で、ストーブの前に座りながら包装紙を剥いたことを思い出していた。

包装紙の紙の匂い。ビリビリ、と空気を裂くような音。ふかふかのパジャマを着て、心を躍らせながらサンタクロースを信じていたあのクリスマスを。

私は、小学五年生までサンタクロースを信じていた。小学五年生のクリスマス前夜、母の車のトランクに大きな大きなぬいぐるみが積んであり、「サンタ、居ないんだな…」と理解した。
中学生になった時、寂れつつあるショッピングセンターのおもちゃ売り場で、母は言った。「もう気づいてると思うけど、サンタは居ない。今日から貴方が妹のサンタだ」と。トランクさえ見ていなければその時点まで気が付かなかったと思う。

今でこそ結構な親泣かせな娘であるが、昔は全くの純粋であった。サンタクロースを頑なに信じていたのだ。メッセージは欠かさず、小学校に入ってからは、リビングにケーキを用意して寝た。サンタにサインを求めて、翌朝筆記体で書かれたサンタのサインを見た時、心から興奮した。小躍りをした。

サンタにはテレパシーが使えるんだと何故だか思っていた。欲しいものを手紙に書いていたのだが、それを誰にも明かさず、イブの夜に枕元に置く。テレパシーで欲しいものが分かるんだ。祈りは通じるんだと信じていた。だから1度も手紙に書いたプレゼントが貰えたことは無い。それでも、それでも本当に嬉しかった。その時々に私が口にしていた夢や、目標に沿ったプレゼントが送られており、サンタさんが本当に私を見ていて、私だけにくれた特別なものだと思っていた。その実、それは母だったからこそわかったものなのだろうが、今でもそれを誇りに、そして嬉しく思う。

2019年のクリスマスイブは恋人とすごした。行きつけの居酒屋に行こうとする恋人に少々げんなりしたが、美味しいご飯を食べて布団に入った。私は洋服のプレゼントを用意していて、翌朝渡すつもりでいた。寝る前に「プレゼント、用意したの?」と聞かれ、嘘をつけずに、したよ、と答えたが、「え!おれ用意してないよ!」と言われ、半泣きで寝た。用意してないんだな、寂しいな、私が用意したからといって相手に求めるのは良くないな、などと思い、半泣きどころではなくなって拗ねて寝た。
しかし翌朝、見慣れぬ紙袋が机の上に置いてあるではないか。私は嘘をつけないが、この人は嘘をつくなあ、下げて上げるタイプの嘘だ……と憎みもしたが、嬉しさの方が上回った。

紙袋を開ける瞬間、私は小学生のあのころ、寒い岩手の家で、ストーブの前に座りながら包装紙を剥いたことを思い出した。このどきどきする気持ちと、開ける前から感じる幸せ。
恋人はネックレスをくれた。曰く、何日も悩んだもので、似合うねと何度も自慢げに言っていた。似合う。これは私にすごく似合う。

誰かが私のためだけに選んでくれるという行為の特別さ。サンタは居ないんだと小学五年生の私は思ったが、恋人は本当にサンタクロースだった。私の母もそうなのだと思う。誰かを思って何かを成し遂げること。誰かの喜ぶ顔がみたいと動くこと。それをできる人こそが本当のサンタクロースなのではないか。

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