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棚|よるの木木

10
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クロスレビュー「アンディ・ウォーホル・キョウト」(京都市京セラ美術館) 2/3

引き延ばされる同一性、ドッペルゲンガーとしての「影」 文:よるの木木 黒地に赤、青地に紺、黒地に黄色、右手に葉っぱのような形が浮かぶ、「ANDY WARHOL KYOTO」展で横並びに展示された三作は、どれも「影」と題される。著名人から商品ロゴや事件まで、何を示すのか一見わかりやすいアンディ・ウォーホルの作品のなかでは、ぱっと見なんだかわからない「影」シリーズは異色に見える。 光の角度や場所によって、伸縮し、濃淡を変え、形がゆがむ影という存在は、自分の写しであるはずなのに

展評|異なる時間と時間の摩擦|伊東宣明「時は戻らない」京都芸術センター

むかしの写真や動画を目にし、みょうな気分になることがある。 記録のなかのかつての自分が、他人のように見えてきたり。 過去から今、今から未来へつながるひとつの線が、ふいに混線しそうになる。もし記録のなかの自分が未来で、それを見る自分のほうが過去だったとしたら。 伊東宣明「時は戻らない」は、そのような異なる時間と時間、あるいは時間と不可分である身体と身体のあいだに、摩擦をひきおこす。 とはいえ、その接触は、過去をいつくしむ郷愁や、不可逆なものへのあきらめとなぐさめからなる、慰撫

書評|「これから先」を見つける姿勢『推し、燃ゆ』宇佐見りん

あかりが退学する時、先生は言う。 「少しは全力でやったほうがいい。これから先のことを考えても」。 母は仕事を頑張る。姉は勉強を頑張る。先生はもっと全力でやれと言う。十代のあかりは皆が言う「頑張る」ができないが、推しを推すことは頑張ることができる。けれどあかりの頑張りは誰にも理解してもらえず、姉からは同じにするなと泣かれてしまう。かれらの頑張るとあかりの頑張るはなにがちがうのか。 先生があかりに言うように、かれらには今の頑張りの延長線に「これから先」が見えているようだ。先

映画評|ほんとうと演技『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介

演技という言葉はときにわるく響く。うそやふりなど、本心とはちがう言葉を操る演技は、相手だけでなく自分自身をもごまかすものだと。一方で演技は、普段は言えないほんとうのことを表すきっかけにもなってくれる。喪失によって言葉が失われてしまったと感じる時、あたりまえだった世界から置き去りにされたように感じた時、人と言葉をふたたびつなぎなおしてくれる力。喪失により言葉からはぐれた者がそれを回復していく道程をおさめたこの映画には、自分にとっての「ほんとう」に、向き合う力をくれるものとしての

劇評|自分の中の他人の体、他人の中の自分の体 | 和田ながら×やんツー「擬娩」

 あなたもわたしも、生まれてきた。こうしてここに生きているなら、ともかく誰かから生まれてきたことはたしからしい。動き回るセグウェイは女性の声でそのような問いかけをしたあと、こう提案する。    「産むところからやってみよう」  それにのって妊娠・出産をシミュレーションするのは、十代の女子・男子、成人男性という、妊娠・出産ができない/すると想定されていない役を帯びた四人である。  本作のタイトルでもある「擬娩」とは、妻の出産前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする風習のことだと

書評|漂流する宛先、漂流する人間『書写人バートルビー』メルヴィル

受け取った手紙の宛先が違っている。「これはあなた宛てだ」と渡されるが、宛名が自分と違っている。違っているけれど自分宛なのだろうと受け取ることもあれば、そもそも配達不能になって誰にも届かない場合もある。 「先生」、「法律家」、「書写人」、「友人」。呼び名は時に役割を前提にする。法律家の先生であれば従業員に指示すること。書写人であるなら書写をすること。友人なら友人らしく自己開示をすること。呼び名が前提とする役割によって、その者は居場所を確保することができる。しかし呼び名が自分と

映画評|きみはぼくの希望「牯嶺街少年殺人事件」エドワード・ヤン

  少年は少女にであえるか 「きみはぼくの希望だ」と訴える少年の前に数秒後、刺されてうずくまる少女がいる。自分がやったことに動転し、「立て、立つんだ、きみにはできる」とよぶ少年の声はふるえている。少女は14歳で命を終え、少年は刑務所におくられる。 台湾の夏は暑い。色をとばす夏の日差しと、夜の海のようにゆらめく藍色の闇が、まばたきのように連なっていくひと夏の期間には、つねにじっとりとした湿気がつきまとう。60年代の台湾は、反政府の疑惑がかかれば徹底して弾圧される、国民同士

手紙と宛先『死のフーガ』パウル・ツェラン

手紙と宛先 パウル・ツェラン『死のフーガ』 (『パウル・ツェラン散文集』ほか所収) ぼくらを朝に昼に夕に命令する彼は夜、恋人に手紙を書き、夜空の星々をあおぐ。 死のフーガのなかで、ことはすすみ、旋律はかさなるように掛けあい、ことはすすみ、ぼくらの入る墓はすすみ、ぼくらの腹を黒いミルクが浸し、ぼくらの誰かに銃弾は命中し、ことはすすみ、ぼくらは煙となって立ち昇る。 ぼくらは彼から「贈られる」命令を飲む、朝に昼に夕に、飲む。 きらめく星々の下で彼によって書かれた手紙は彼の恋人へ贈

映画評|飛び石と星座「東北記録映画三部作」酒井耕・濱口竜介

流れる河の真ん中に置かれた小さな飛び石の上に立って、自分の歩幅分離れた水面に飛び石を置く。流れる水面に留まらず流されてしまう石もあれば、自分の重心を支え次に渡る飛び石になるものもある。水の流れにまぎれる微かな声に耳をすまし、水の流れに抗って留まる石の上を踏み水しぶきを感じ、次に渡る飛び石が置ける時を待つ。 そんな飛び石のような言葉がある。ふと見上げれば、頭上に仮設の橋が架けられようとしている。河の流れが奔流であればあるほど、水面よりも随分高く、頑丈で大きな橋が求められる。そこ

書評|ウサギ穴のある道『ウォークス』レベッカ・ソルニット

ウサギ穴のある道 『ウォークス』レベッカ・ソルニット 物理的な場所が、ネット上へスライドし、わたしたちの身体は画面の明滅として現れるようになった。現在地と目的地はゼロ距離で結ばれ、かつてあった「道」は消える。 ソルニットが辿る歩行の歴史は、道の歴史でもある。歩く風景に詩情を見出す喜びと、未知なるものへの希求は、かつて庭として区切られていた歩行空間の壁を溶かし、わたしたちの身体はより広い原野へ飛び出していったが、産業革命後には一転、飛行機、列車、自動車等の出現によって、「運