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書評|「これから先」を見つける姿勢『推し、燃ゆ』宇佐見りん



あかりが退学する時、先生は言う。

「少しは全力でやったほうがいい。これから先のことを考えても」。

母は仕事を頑張る。姉は勉強を頑張る。先生はもっと全力でやれと言う。十代のあかりは皆が言う「頑張る」ができないが、推しを推すことは頑張ることができる。けれどあかりの頑張りは誰にも理解してもらえず、姉からは同じにするなと泣かれてしまう。かれらの頑張るとあかりの頑張るはなにがちがうのか。


先生があかりに言うように、かれらには今の頑張りの延長線に「これから先」が見えているようだ。先が見えているから今の苦行を頑張れる。しかし、あかりにはそれが見えない。電車に揺られる人々の様子があかりの眼にはのどかに映る。かれらはどこかへ「移動している」という実感があるから安心を得ることができるのであって、これが家のソファでなにもしていなければ過ぎる時間分だけ焦りが募るだろうと。どこかに向かっている間は乗っている今の自分を肯定できるが、止まったままの自分にはそれができない。


そんな「これから先」が見えないあかりは、未来が指し示してくれる「今」がない。未来によって今を頑張る自分を肯定できるかれらと違い、あかりが今とつながるには推しの存在が必要だ。自分のぜんぶをささげ、推しの存在を感じることで推しと同期した自分の今を確認できる。推しの画面越しの食事と同期し自分の食欲をよびさまし、電波をとおした推しのおやすみに同期し眠りにつく。かれらが「これから先」の存在によって今とつながっているように、あかりは推しの現在と同期することで今とつながっている。


しかし、その推しは燃える。スキャンダルで炎上した推しに、あかりはますます身をけずり、どんどんと自己破壊的になっていく。推し活のために頑張っていたバイトはクビになり、学校は退学になり、職になかなかつかないという理由から家族ともいづらくなり一人暮らしになる。熱心に書いていた推しブログも途絶え、SNSからもログアウトし、孤立が進む。祖母の死に一時帰国した父は、女性声優のSNSにリプライを送る一面を持つが、そこには仕事を頑張るために推しを必要とする父と、まさに推しをとおしてしか今を生きられないあかりとの差が浮き彫りとなる。自業自得という言葉を想起するあかりだが、かれらにはあかりの深刻化する孤立が自業自得にようにしか映っていないのではないだろうか。


そしてついに推しが引退し、あかりが今とつながれる唯一の存在が消えてしまう。あかりは今と、つまり自分自身との接続点をなくしたのだ。楽曲を聞いてもそれはすべて推しの過去であり、推しの現在にはつながらず、あかりは自分の今とつながることができない。てがかりを辿って向かった推しの自宅のベランダで、女性が手にした洗濯物、それが露わにする「今」に、あかりはうちのめされる。かつて切っても抜いても延々と伸びてくる爪や毛に嫌悪感を抱いていたあかりは、同様に生きている限り着て洗ってをくりかえさねばならない洗濯物を、自分の中心であった推しの「今」と重なって目の当たりにすることで衝撃を受ける。そしてその推しの「今」を、自分の「今」とつながる回路としてもう持つことが叶わぬことを突きつけられる。


家に帰ったあかりが最後にとりすがったのは、炎上のきっかけとなった推しの暴力行為だ。あかりはその時の推しの感情と同化することで自分自身のなかに暴力性をみいだしそれを発揮するが、自分から発された行為にはじめてあかりは「これから先」を発見する。コップでもなく、汁をたたえたどんぶりでもなく、後始末が楽そうな行為を選んだ自分、行為の先をよんで動いた自分の体に出会う。これまで推しと同化することでしか自身を見出せなかったあかりがはじめて、自分の置かれた状況を通して現れた自分自身に遭遇するのだ。苦行によって自分の余計なものをそぎ落とし、推しという背骨だけになることを目指していたあかりは、推しが担っていた中心だけでなく、その周りの全体が自分自身なのだと気づく。自分で投げたものを自分で拾うはいつくばった姿勢は、どこかへ向かう電車にゆられる姿勢とはちがうけれど、その姿勢から見える「これから先」があると気づくに至る。


推しの引退直前のライブ配信の終了間際、画面越しの推しが何かを待っているようだとあかりは感じたが、何かを伝えようとしても言葉が見つからなかった。けれど、ラストの先のこの姿勢で当分生きようと決意したあかりには、きっと彼女自身の言葉が見つかるのだろうと思う。


『推し、燃ゆ』宇佐見りん
河出書房新社
2020年

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