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イヤフォンを耳から外した途端、なだれ込む街の喧騒が私の胸ぐらを掴んだ。
チッと心の林檎が舌打ちをする。あれ。私の心、赤かったっけ。そんなの誰も知らねぇよ。

人混みが大の苦手で、胃袋に住むおくすりに縋りついて、なんとか正気を保っている。
夏の終わりかけの風の匂い、なんてこの街にいる人間には分かる筈もないのだろうな、と齷齪しているスクランブル交差点をぼんやり眺めていた。なんで私はここに居るのだろう。

いつの間にか、私はひとり、あてどもなく歩き始めていた。耳にはイヤフォンをして、音量を上げて。
辿り着く場所なんてあるのだろうか。このまま歩き回って、夜になったら。どこへ行こう?

この歳になっても迷子になるもんだ。
私は、スマホの充電が切れて、途方に暮れていた。音楽も聴けない。現在地も分からない。おなかもすいた。ふらふらと夏の終わりかけの空を、ちいさな路地裏から見上げていたら、遠くに入道雲が垣間見えた。偉大な入道雲の輪郭を眼差しでなぞった。
夕陽。その光り差した入道雲を、この世界で見上げているのは、私たったひとりの筈だ、と思っていた。



「立派な入道雲ねぇ。」
左側の少し下から嗄れた声がした。桃色の目尻の皺が優しく滲んでいる。白髪がきらきらと光っている。細く垂れた優しい糸みたいな眼差しで、一緒に並んで入道雲を見上げている。
「本当に。きれいですね。」
と私は小さな声で言った。腰の曲がったおばあさんが、私を見上げて微笑んでいる。なんて優しい時間なのだろう。こんな、夏のタオルケットに包まれたような気持ちは、いつぶりだろう。

穏やかな眼差しで、都会の海原を泳ぐ私の瞳。赤いミュールをカランコロン鳴らして、ゆっくりゆっくり、路地裏を抜けた。電車の音が聞こえて、薄い月が昇り始めて、私は少しだけ、現実のなかを揺蕩うのではなく、しっかりこの足で立っている気がした。この感覚。まだ覚えていたんだ。

スローモーションで流れる車窓の景色を、弱い瞬きと、強い眼差しで眺めている。
鼓動と、電車の揺れが正しく揺れ惑った。



ああ。私。生きている。


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「束の間シリーズ②」短編小説

執筆 夜明ユリ

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