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ハコモノ放送部 アドベントカレンダー企画 12/21 「歌より気楽になりたいが」

生きていることそのものの、悍ましさとか、いびつさ、気持ちの悪さとか、居心地の悪さ、いたたまれなさ、罪の感触が消えなくて苦しむ日がある。
生きていけることそのものの、もはやどうにもなるまいなという諦観が、宇宙空間でつんと押されてそのままどこまでも行ってしまう一個のごみのように、この身に起こる。
自殺しちゃった友達を思い出す。死んじゃった程度で友達をやめはしない。思い出すあの子はいつも楽しいことの話をしている。みんなの思い出す私もいつも楽しいことの話を、楽しそうな声のする人間だったらいい。


0921

スパイの男がいる。
いる、ということを説明的に知覚して、しかし私はそこにいない。男の行動を俯瞰視点で観察しており、どうやら彼はずっと何かを探しているようだった。
私は教会にいる。そばには妙齢のシスターが、木製の椅子に腰かけている。
椅子と梁は光沢のある塗料により黒く丁寧に塗り込まれ、昼の薄い日差しの中でわずかにつやめく。
半円アーチの窓から、濃い緑色の針葉樹林が見える。その向こうに白っぽい青空が見える。ずっと遠くに、水色の山並みがある。
中世欧州のどこかの街、それも郊外と思われた。

目の前の現実の景色を視界にとらえながら、同じ脳で別のウィンドウを開くようにスパイの動向を観測する。シスターは私と知覚を共有しているようなそぶりで、観測される男の振舞いひとつひとつを解説してくれた。それはこれのために、あれはあっちに向かい、それがこれに意味をもたらす、というふうに。
男が証拠隠滅に失敗する。
シスターの細い白い指が宙をかくのを見、私はその説明を理解する。説明と理解はほとんど同時に行われ、ほんとうに私たちはシナプスを直列でつないだみたいだった。
シスターは当然ながら、男が「スパイである」=「敵である」ことを知っており、私にそれを迎え撃ってみろと言う。じきにここへ来るけれど彼は記憶を失った旅人のふりをするはずだから、生かさず殺さず、まずはどう動くか見極めてみろと。
私はこれをシスターが与えた試験だと考え、承知した。
試験に合格したら何がもらえるかは分からないけど、きっとシスターは喜ぶと思って。

暗転。視点移動。

シスターは非常に冷静でしたたかな性格をしている。丁寧・明朗な口調で、私にこれからすべき行動を教えてくれる。私はそれを全て聞く。
彼女の予想通り、どうやら男は教会の前に倒れていたらしい。窓のある一室に気絶した彼を寝かせ、シスターは部屋のドアと窓を開ける。ドア、私、ベッド、シスター、窓と並ぶ辺りに涼しい風が通り、白いレースのカーテンが逆光の中に揺れている。
日差しが少しずつ傾く。昼が終わる。

スパイが目覚める。力の入らない様子で体を起こす彼に、シスターはしれっとした調子で、行き倒れた旅人を介抱したというていで語り始める。スパイはそれを好都合と思ってか、記憶がないふりをしている。
一瞬の時間だったが、さまざまな話をしたように思う。
建築のこと。宇宙のこと。眠る鳥のこと。なつかしい歌のこと。丘に立つ風車のこと。朝市に並ぶパンのこと。家族のこと。故郷の景色のうつくしさ。見てきた世界の果てしなさ。今日の日のあたたかさ。
窓辺に立つシスターの、後ろにひとつでひっつめた黒髪が、窓からまっすぐ注がれる日差しの角に触れて細くきらめいている。年齢を重ねながら慎重に解きほぐされた髪の筋の細かさが、目の前に拡大されているみたいに、それはドアのそばにいるはずの私にもつまびらかに見えた。
私たちは立場を離れて、会話する三つの主体になり、その場は柔和な言葉と煙のような気遣いに満たされていた。
スパイの目は、赤を帯びてはっきりとした茶色で、陰影の強い綺麗な虹彩をしている。私はベッドに半歩近づき、身を屈める。彼の目を覗き込んで「目が赤くて綺麗」と言う。
スパイは屈んだ私の両頬を手で包むように掴み、目を合わせ、こちらの虹彩を覗き込む。「貴女の目は私よりも少し黄色に近い色をしている」と言う。
彼の目に反射する私の眼球の色味は、確かに言われる通り、スパイのそれよりもほんの少し赤から離れた茶色をしていた。
二つの茶色い眼差しが、夕方にさしかかる光の中で、遮るものなく向かい合う。
私は彼が敵であるとか、誰かを殺したとか、何を奪ったとか盗んだとか破壊したとか、そんなことはもうほとんどどうでもよくて、ただそのうつくしい紅茶色の虹彩が、窓から及ぶ光に半分だけ透き通るのを、すぐそばでそのまま見ていたくてじっとしていた。

次の瞬間には、シスターの詰問から逃れられなかった男がスパイであることがこの場に露呈し、彼はすぐさま走り出してしまう。私は私の頬を離して去ってしまった彼の目を、もう覗き込めないことが残念だとだけ考えていた。




20221221 トゥリ



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ご高覧賜り誠にありがとうございました。
改めて、あなたの暮らしの、いつか何かの足しになりますように。


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