栄光のエリザベス1世(大英帝国物語③)

おひさしぶりです(°▽°)

では。


■ 栄光のエリザベス1世

エリザベス1世(1558-1603)の治めた時代は「エリザベス朝」といわれ,現在でも伝説の時代だったと認知されている(また,劇作家のシェークスピアが活躍した時代でもある)。エリザベスが女王となった頃,国内では宗教の対立が起きており,また海外ではスペインが「太陽の沈まぬ国」と呼ばれ,大陸ではハプスブルク家とフランス王家が巨大勢力として君臨しており,そしてイギリスは単なる弱小国でしかなかった。そんなイギリスを変えたのがエリザベス1世だった。

国教会体制を確立

エリザベスはまず,エドワード8世の頃につくられ,そしてメアリ1世の頃に無視された首長法をもういちど制定し直し(1559),改めて女王がイギリス教会の上に立つことを確認した。さらに新しい法律(統一法,1559)でイギリス国教会のありかたを正式に確定させ,さらにイギリス国内にいる他の宗教団体に対しての一定の配慮も忘れないことで国王の権力を安定させることに成功した。

それと同時期に大陸では,フランス王とハプスブルク家が北イタリアの領土支配をかけて争ったイタリア戦争が終結した。エリザベス1世も参加し同意した講和条約(カトーカンブレジ条約,1559)によってお互い痛み分けとったが,フランス王もハプスブルク家も多額の負債や大きなダメージを負うこととなり,お互いに力が衰えることとなった。

しかし,同時期にハプスブルク家領内のドイツでは,力をつけはじめたルターを始祖とする改革派キリスト教の集団が伝統派キリスト教信者であるハプスブルク家に反乱を起こすゴタゴタが起きており,領内で混乱が生じていたために戦争をつづけれなくなったという理由もあった。さらにこの改革派キリスト教は枝分かれし,カルヴァンという学者を始祖とする改革派キリスト教(プロテスタント,カルヴァン派)という一派を誕生させ,それがフランスとネーデルランド(オランダやベルギーのあたり)に流入することとなる(そして後にイギリスにも...)。

伝統派キリスト教を重んじるフランス王の領地に流入してしまったことで改革派vs伝統派の大規模な宗教戦争(ユグノー戦争,1562-1598,ユグノーとは「乞食野郎」を意味しカルヴァン派の蔑称)がはじまってしまい,また,ネーデルランドでもふたつに分家していたうちのひとつであるスペイン・ハプスブルク家の宗教弾圧に対抗した改革派と伝統派とのあいだで大規模な戦争(80年戦争,1568-1648)がおこってしまい,大陸ではひきつづき惨事がつづいた。

この80年戦争がはじまる頃,海上では時代を謳歌しているスペイン船を襲撃して富を奪うイギリスの海賊船が発生していた。無敵艦隊といわれたスペインの船を西インド諸島(カリブ諸島)などで襲うこの怖い物知らずな海賊船は莫大な富をイギリスにもたらしていたが,この背後にいたのはエリザベス1世だった。エリザベス1世はこれら海賊船に海賊行為の許可を出しており,また,エリザベス1世自身もこれらの船に出資し莫大な富を得ていた。スペインは弱小国であるイギリスの謎の行為に困ったが,それよりも重要だったのはネーデルランドとの80年戦争に勝つことだった。

ネーデルランドとはどんな場所か。

ネーデルランドは中世の頃(900)から毛織物産業が盛んで,イギリスなどから輸入した羊毛を加工することで利益を生み出しつづけている土地だった。そのころからネーデルランドはフランスの支配を受けていたが,イギリスによるフランドル獲得戦争である100年戦争(1377-1453)はじまると,フランス王と対立しはじめていた当時のネーデルランド領主はイギリスの味方をして一緒に戦った。その後ネーデルランドは婚姻によってハプスブルク家の支配下となった(1477)。

やがてハプスブルク家の支配下にあるスペインにも大航海時代がやってくる(1492)と,植民地から運ばれてくる富はポルトガルやスペインを経由してネーデルランドにも運ばれ,そこからヨーロッパ各地と貿易することによって,ネーデルランドは毛織物産業だけではなく貿易都市としても発展をすることとなった(そしてイタリア商人は没落していった)。その結果,ネーデルランドには商人がたくさん集まるようになり,また,割と宗教に寛容だったことからヨーロッパ各地で宗教的な迫害を受けたユダヤ人や改革派キリスト教たちの避難先にもなっていた。そうした中で,スペインの宗教弾圧をきっかけとしてネーデルランドは80年戦争を戦うこととなった。

ネーデルランドを率いることになったのはネーデルランドの有力貴族であるウィレムだった。ウィレムがスペイン勢力と反スペイン勢力に分断されたネーデルランドの中で,反スペイン勢力として戦いつづけた結果,ネーデルランド全17州のうちの北部にある7州をまとめあげ,スペインから事実上独立することに成功した(1581)。そしてこの北部7州が「オランダ」となった(正式に独立するのはウェストファリア条約によって,1648)。しかしその後も80年戦争はつづき,ウィレムがオランダをつくった3年後にスペイン勢力によってウィレムは暗殺されてしまった。

リーダーのウィレムを失ったオランダが助けを求めた相手,それがイギリスのエリザベス1世だった。

改革派に支援

エリザベス1世はオランダを助けることにした。というのも,エリザベス1世は改革派のキリスト教に寛容な人物であり,さらに,もしも伝統派のキリスト教が大陸を支配するようなことになればイギリスの脅威になると考えてのことでもあった。そのため,イギリスの海賊船に許可を出してスペイン船を襲わせている頃,すでにフランスで起こっていた伝統派キリスト教vs改革派キリスト教の戦争であるユグノー戦争にもすでに介入しており,エリザベス1世は改革派のための支援をしていた。そして,それと同じようにオランダの改革派にも力を貸した。

しかし,これにはさすがのスペインも吠えた。

スペインの領土であり利益を生み出すネーデルランドの反乱に介入され,さらには植民地から富を積んで戻ってくるスペイン船も襲撃されていたハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世は,ついにイギリスに対して無敵艦隊といわれた海軍を送り込み,戦争(アルマダの海戦,1588)をはじめた。ふつうに考えてこの戦争にイギリスが勝てる見込みはなかったが,突然,謎の暴風が吹き荒れたことによってスペイン艦隊は次々に沈んでいき,スペインはまさかの敗北を喫することとなった。そしてこの奇跡の勝利によってエリザベス1世は伝説となった。

世界へ

また,エリザベス1世は海賊船による強奪作戦につづき,貿易会社による海外進出も行った。たとえば,レヴァント会社(1581)はエリザベス1世から許可をもらってオスマン帝国(後のトルコ)との独占的な貿易権を手に入れ,富を獲得した。イギリス東インド会社(1600)もエリザベス1世から許可をもらって,アジアとの独占的な貿易権を手に入れ,富を獲得した(後に東インド会社という貿易会社が各国にできる)。イギリス東インド会社ははじめアジアの各地と貿易しようとしたが,東南アジアのインドネシアや日本ではすでにオランダ東インド会社に支配され敗北したためにインドを拠点に活動することとなった(そしてインドは大英帝国が崩壊するまで重要な拠点となる)。

これらのような貿易の独占的な許可を国王からもらっている会社(勅許会社)は商人によって設立され,はじめのうちは貿易による富の獲得が目的だったが,だんだんとその目的は領土侵略による富の獲得へと変わっていくこととなった。

こうしてイギリスも大航海時代に乗り込むこととなったが,そうした中で東インド会社に許可を与えた3年後,1603年にエリザベス1世は死去した。69歳だった。


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