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かんたん「黄金の大英帝国史」世界史⑦

なぜ世界の公用語が英語なのか知っていますか?それは

「イギリスの時代」

があったからです。いちばん盛り上がっていたのはだいたい1815-1914年の100年間くらいです。

はっきりいって,このイギリス帝国の歴史はひとりの人間が理解できる範囲をはるかに超えているのでこれをすべて理解するのは不可能ですし,かんたんに頭の中で整理としようとしてもなかなか難しいと思うのでゆっくりと,20回くらい繰り返し読んでもらえるとなるほど感が出てくるんじゃないかと思います(°▽°)



1.世はまさに大航海時代

当時ヨーロッパではポルトガル(1415)やスペイン(1492)がいち早く大航海時代を迎えていて,他の国より一足早く世界中の富を獲得していた。この2国は国王による政治体制(=絶対王政)が他の国よりも早く確立されたことで国内政治が安定し,さらに外洋に近かったために他の国よりも早く世界を旅することができていた。その一方でイギリス,フランス,オランダは国王による政治体制の確立が遅くなったために,大航海時代に出遅れることとなった。

2.貿易を拡大する

イギリスが遅ればせながらもエリザベス1世による統治を確立(1558-1603)して海外に進出すると,無敵艦隊と言われたスペインとの争いが起き,そしてこのアルマダの海戦(1588)に見事勝利したエリザベスは「エリザベス伝説」として後世に語り継がれることとなった。そうしてイギリスは国王の許可によって東インド会社などの貿易会社がたくさんつくられ,どんどん海外にうって出た。その主なターゲットは南北アメリカ大陸,西シンド諸島(=カリブ諸島),アフリカ大陸,インド,東南アジアの資源や市場だった。他の国も次々と植民地を獲得していく中,イギリスは当時絶頂期だったオランダと戦うことになり,この戦争では北アメリカにある元々オランダの植民地だったニューアムステルダム(のちのニューヨーク)を獲得することとなった(1664)。また,これらの植民地に渡っていくのは,主にイギリスの犯罪者や宗教弾圧を受けたひとだった。

3.vsオランダ

一方でイギリス国内では宗派の違うキリスト教どうしの争い(1642-1649)がはじまり,最終的にはイギリス国王チャールズ1世が処刑されてしまった。新しく誕生したイギリス政府はイギリスの産業を保護するためにオランダの貿易を妨害したりしてオランダと対立することになったが,フランスのルイ14世の力が強大になりすぎていたことと,そしてイギリスの貴族たちがイギリス国内での国王の力を制限したかったために起こした名誉革命(1688-1689)を成功させたかったことからオランダの力を借りることになり,同盟を組んだことでひとまずイギリスとオランダの敵対関係は改善された(しかし,最終的には海外領土をめぐって戦争(1780-1784)をすることになり,それによってオランダは没落していくことなる)。

そしてこの過程によって,イギリスは他の国より一足早く「憲法によって国王の力が制限される」という現代的な政治システム(=立憲君主制)に切り替わることとなった。またこの時期フランスの強大化にしたがって,スペインは弱体化した。

4.vsフランス

その後も侵略は順調に進み,その相手は主に太陽王ルイ14世(1643-1715)によって領土の拡大に成功していたフランスだった。

イギリスとフランスはこの時期第二次百年戦争(1688-1815)とよばれる長い植民地戦争を繰り広げていたが,そのほとんどはイギリスの勝利だった。戦争の結果,イギリスはフランスの持っていたスペイン領などへの黒人奴隷貿易権を獲得し(1713-1808),その奴隷を大規模砂糖農園などで働かせ,その砂糖をイギリスに輸入するという三角貿易によってイギリスは莫大な富を獲得していた。また,フランスの支配が大きかった北アメリカ大陸で起きたフレンチ=インディアン戦争(1756-1763)に勝ってフランスの領地を獲得し,またインドでもフランスとのプラッシーの戦い(1757)に勝ってインドの権利を獲得するなど,一連の戦争でイギリスは一気に繁栄への道を突き進み,また,一連の戦争によってスペインにつづいてフランスも一気に弱体化することとなった。

5.マシーンを発明する

同じ頃イギリス国内では最新のテクノロジーによって今まで見たことのないマシーンが発明されていた。このマシーンの発明によってイギリスは他の国とは段違いの生産力や軍事力を持つこととなり,貿易の市場を世界中に広げることとなった。

6.アメリカに独立される

イギリスが戦争でフランスに勝ち続けられた理由のひとつには,戦争費用の調達方法があった。

フランスが国民や貴族から税金を取って戦費を賄おうとした(この反発が後のフランス革命に繋がった)のに対し,イギリスは対フランスにおける戦費調達や企業へ融資するための機関として中央銀行である「イングランド銀行」を設立(1694)した。そして民間の資本で設立されたこのイングランド銀行が「国債」という政府が借金をできるシステムを発明したことで貸し手を募集することが可能となり,イギリスは有力な地主やオランダ商人などから安定的にお金を集めることに成功した。この方式にによって,イギリスはフランスよりも安定した戦費調達ができた。

しかし,それでも資金不足となってしまったイギリスは,植民地であるアメリカからたくさん税金を集めようとした。そしてこのことが原因となり,怒って反発したアメリカ北部の13州が植民地軍としてイギリス軍に戦いを挑むことでアメリカ独立戦争(1775-1783)が起こり,そしてこれに勝利した植民地軍によって「アメリカ合衆国」が建国(1776)された。イギリスはアメリカという大きな植民地を失ったが,それと同時に行われていたオランダとの第4次英蘭戦争(1780-1784)によってさらに領土を拡大するなど,その勢いは落ちなかった。

この戦争によってオランダは決定的に衰退し,また,これによって今までアメリカに送り込まれていた犯罪者たちの行き場がなくなったので,今度はオーストラリアがその代わりとなった。

7.vsフランス②

今度はフランス革命(1789-1795)でぐちゃぐちゃになったフランスの中からナポレオンが現れた。

ナポレオンはすごい勢いと軍事力でドイツやスペイン,オランダをあっという間に侵略して大陸の支配者となった後,今度はイギリスに向かってきた。しかし,イギリスがトラファルガーの海戦(1805)にてボコボコにすると,ナポレオンはそれ以降海を渡ってこようとはしなかった。このナポレオンによる戦争(1799-1815)が終わったタイミングでヨーロッパ各国はウィーン会議(1815)を開き,「みんなで協調してヨーロッパを治めていこう」ということを一応,確認した。このナポレオンがヨーロッパで暴れたタイミングを使ってどさくさにまぎれたイギリスは,オランダ植民地だったアフリカ南端のケープやシンガポールなどをさらに獲得した。

その一方で,イギリス国内では工場がたくさんうまれたことで農民たちが都市に集中し,その農民たちが「労働者」として働くことでイギリスの生産力は飛躍的に向上し,そして発展した都市と都市は鉄道(1825)によって結ばれ,これらの連鎖でイギリスはさらなる発展を遂げていた。

8.vs中国

そしてその頃,貿易を制限していた中国がその貿易制限を少し緩めだしたことからイギリスも中国と貿易をはじめた。イギリス本国で起きた紅茶ブームによって主に中国茶を輸入していたが,それによってイギリスの貿易赤字が膨らんでいってしまい,その赤字を解消する方法をいろいろと考えた結果,インドでつくっていたアヘンを密貿易で中国に売り込み,その対価として莫大な銀を獲得するというヤバい計画をイギリスが思いついてしまい,それを実行することとなった。これによってイギリスは,中国茶による赤字を打ち消すことに成功し,インドからアヘンを中国に送り,その対価としてインドが中国から銀を受け取り,そしてインドはイギリスの綿製品輸入の対価としてその銀で支払うという新しい三角貿易を作り出すことに成功し,この三角貿易によってイギリスは莫大な富を獲得することとなった。そうしてアヘン密貿易がつづいていくとどんどん中国から銀がなくなってしまい,あまりの銀の流出に困った中国は怒ってアヘン戦争(1840-1842)を起こすこととなったが,しかし負けてしまい,その結果,港の開港や香港を奪われたりと散々な結果となった。

また,東アジアの超大国である中国がはじめてヨーロッパの国に負けたというこの衝撃的ニュースは日本にも伝わり,徳川幕府がアメリカと条約を結ぶきっかけのひとつとなった。

9.栄光ある孤立

また,アヘン戦争のころからイギリスはヴィクトリアが女王になっていた。このヴィクトリアが女王だった時代(1837-1901)は政治経済だけではなく技術革新や文化発展なども起きていたために,大英帝国の繁栄を象徴する時代のひとつとして「ヴィクトリア朝」と呼ばれている。このヴィクトリア時代,インドなどの広大な領地と最新のテクノロジーを使って「世界の工場」となり,そして「栄光ある孤立」としてヨーロッパの他の国といちいち同盟を組まなくてもやっていけたイギリスは,自然と金融面でも中心となっていった。ロンドンは世界金融の中心地となっていき,イギリスは金本位制を確立(1844)させた後にイギリスポンドを基軸通貨とした「世界の銀行」としての役割を担った。

10.vsロシア

アヘン戦争の少し後,力をつけはじめていたロシアが領土拡大をねらって南のバルカン半島(イタリアとトルコのあいだの地域,セルビア,コソボなど)に進撃しはじめた。そして,そこでオスマン帝国(=トルコ)と戦争することとなった。ロシアを警戒しはじめていたイギリスとフランスは,すでに弱体化していたオスマン帝国に手を貸すことでロシアと敵対し,クリミア戦争(1853-1856)でロシアに勝利した。これによってイギリスはアジアの重要拠点であるインドを守り,そして遠く離れた地であってもイギリスの力は強大だということを世界にしらしめた。また,このクリミア戦争でのナイチンゲールの活動は現在の看護に大きく影響を与えることとなり,また,イギリス,フランス,ロシアがこのクリミア戦争に夢中になっているスキを突くかたちで,アメリカのペリーが黒船をつかって日本の徳川幕府と条約締結の交渉をすすめることとなった。

クリミア戦争に負けたロシアは一旦は南下政策を諦めるものの,フランスとドイツが普仏戦争(1870-1871)をしはじめたタイミングでもう一度バルカン半島への進撃をしはじめたが,しかしその進撃はオーストリアのバルカン半島政策と対立することとなり,そしてこのロシアとオーストリアと現地民族による対立はしばらくつづき,のちの第一次世界大戦の原因になることとなった。また,この普仏戦争に勝ってさらに力をつけたドイツはのちにイギリスと「世界のどこに鉄道を敷くか」という政策で対立することとなり,このイギリスとドイツによる対立も第一次世界大戦の原因になった。

11.vsインド

クリミア戦争のすぐ後,今度は植民地だったインドでイギリス支配に対する反乱が起きてしまった(1857-1858)。イギリスはこれをなんとか鎮圧し,そして,インドをインド帝国として独立国っぽく仕立てるも,その皇帝にはヴィクトリア女王がなることでやんわりと囲い込むという新しい統治システムに切り替えることで,重要な市場であるインドをなんとかつなぎとめることに成功した。

12.vsエジプト

一方,エジプトでは人工的に運河をつくる(=スエズ運河)ことでヨーロッパとアジアの移動をかんたんにして貿易しまくろうというプロジェクトが進んでいた。それまでのヨーロッパとアジアの海上貿易のルートはアフリカ大陸を大回りするしかない不便なルートしかなかった。苦労の末にスエズ運河は出来上がったが,お金を借りすぎていたエジプトは財政破綻してしまい,それによって国内では反乱が起きてしまった。その反乱を鎮圧するかたちでイギリスが割り込む(1882)ことで,このスエズ運河を獲得することに成功し,イギリスの貿易はさらに加速することとなった。

13.vsアフリカ

イギリスはインドをうまいこと統治しつつも,今度はアフリカの植民地だった南端のケープと北端のエジプトのあいだにある国をぜんぶ獲得することでアフリカの交通を便利にし,さらに貿易をしまくろうというプロジェクトも考えていた。そして,その途中のオランダ領的な国(=トランスバール共和国)で金やダイヤモンドがたくさん産出されることがわかると,その富を獲得するために戦争をはじめ(1899-1902),この戦争にも勝利したことでイギリスはさらに富を獲得することとなった。

14.競争力が低下する

こうして世界の支配者となっていたイギリスだったが,1800年代の後半からはイギリスのテクノロジーを真似したアメリカ,ドイツ,そして日本の経済がどんどん発展してきており電話(1876),蓄音機(1877)ガソリン自動車(1885),などが発明された。1800年代終わりころにはアメリカがイギリスを抜いて工業生産で世界一位になり,ニューヨークはロンドンと並ぶ金融都市となるなど,イギリスの競争力はすでに低下しはじめていた。また,そのアメリカからはじまった金融危機である世界恐慌(1929)はイギリスにもダメージを与えた。このダメージによってイギリスは金本位制を放棄し,イギリス帝国が支配するイギリス帝国グループの中でポンド通貨を中心にして頑張る経済政策によってなんとか回復を試みたが,もうこの時,かつての力がないことは明らかだった。

15.vsドイツ

もはや「栄光ある孤立」を維持できないと判断したイギリスは,北アジアで強大になっていたロシアのインド方面の進撃を警戒して日本と日英同盟(1902-1921)を結び,また,ヨーロッパでは強大になっていたドイツの進撃を警戒してフランスと同盟(1904)し,さらにロシアとも同盟(1907)する(=三国協商)など世界の緊張感は高まっていた。対してドイツはオーストリアと同盟してしばらくは睨み合ったが,根本的にイギリスの世界政策とドイツの世界政策が対立していたことから,最終的には第一次世界大戦(1914-1918)に発展することとなった。

経緯はまず,とあるセルビア男子が車で移動中のオーストリアの皇太子を射殺した(=サラエボ事件)。このセルビア男子のバックにはセルビアの秘密組織がついており,この秘密組織はオーストリアとロシアによるバルカン半島(ヨーロッパの火薬庫といわれている)の侵略に不満を抱いていた。この秘密組織とセルビア政府が繋がっていることを知っていたオーストリアがセルビアに宣戦布告することで戦争がはじまった。そしてセルビアはオーストリアと対立していたロシアに支援されたが,今度はそのロシアにオーストリアの仲間であるドイツが宣戦布告し,今度はそのドイツにロシアの仲間であるフランスが宣戦布告し,そしてドイツがまず中立国だった隣国のベルギーを侵略したことを大義名分にしてイギリスも参戦することとなり,戦争はヨーロッパ中に広がった。

かたちとしては,ドイツとオーストリアに対して東からロシア,西からフランスとイギリスで挟み撃ちするかたちとなった。

16.アメリカが勝つ

なかなか事態は進展しなかったが,ロシアの国内でロシア革命(1917)が起こり突然内側から空中分解したこと,さらに膨大な武器援助で利益を得ながらも表向きは孤立主義を通していたアメリカが,じりじり追い詰められていたドイツによる起死回生の作戦「イギリスに向かう船は根こそぎ潜水艦で爆撃しまくる作戦」によってアメリカ人に被害が出たことを理由に参戦(1917)を決めたこと,また,スペイン風邪が大流行したことで一気に戦争は終結に向かい,最終的には,もはや無謀だと思えたドイツの作戦にNOをつきつけたドイツ兵士が反乱を起こすことによってドイツも内側から空中分解し,その結果,戦争は終わることとなった。

ヴェルサイユ条約(1919-1933)によって,ドイツには果てしない賠償金が課せられ,また,他の国も経済的ダメージを受けたり国ごと崩壊したりと散々な結果であった一方,アメリカはほぼ無傷で戦争利益を得ることとなり,世界に対する発言力は高まった。この戦争では1600万人が死んだといわれている。

17.イギリスが弱体化する

イギリスはこの戦いに勝ったには勝ったが,国民は失われ,経済は弱体化し,アメリカへの膨大な債務をかかえることとなった。こうしてイギリスが弱体化したことでイギリスの植民地では独立の動きが強まり,それを受けてイギリスは植民地ではなく一定の自治権を与えつつもイギリスの連合としてゆるやかに統治するという方式を憲法で正式に採用(1931)して,なんとか植民地をつなぎとめた。

そして総面積だけをみれば,この方式によってこのとき(1918)のイギリス帝国の領土面積は世界全土の20%以上を占めて過去最大(現在のロシアでも12%)となり,歴史上でみてもいちばん大きい帝国となっていた(主な支配下:アイルランド,ジブラルタル,マルタ島,キプロス島,オーストラリア,ニュージーランド,カナダ,インド,ミャンマー,香港,マレーシア,シンガポール,クウェート,エジプト,ナイジェリア,南アフリカなど)。

18.vs中東

また,この第一次世界大戦の時にドイツ側として参戦していた中東のオスマン帝国の領地を戦後どうするかについてのイギリスの外交政策は「三枚舌外交」と呼ばれ,現在でも問題の種となっている。

1)サイクス=ピコ協定は,第一次世界大戦が終わった後イギリスとフランスとロシアで中東の国のイラクやシリアの領地を分けて獲得するいう秘密契約(1916)。パレスチナは保留地域とされた。イギリスの政治家サイクスとフランスの外交官ピコで交わされ,のちにロシアの外務大臣サゾノフも加わった。

2)フセイン・マクマホン協定は,イギリスがオスマン帝国から独立したがっていたアラブ人共同体に対して,イギリス主導下での反乱と独立を認めた秘密契約(1915)。サウジアラビアやイラクやシリアが対象となり,アラブ人有力者のフセインとイギリスの中東外交官マクマホンでやりとりされた。

3)バルフォア宣言は,イギリスがユダヤ人のための国家をパレスチナに建国することを認めた宣言(1917)。パレスチナへの国家建国を目指していたウォルター=ロスチャイルドに書簡で出され,ロスチャイルド家の支援を狙った。

この3つの政策は明らかに矛盾しているようにみえるが,現在の欧米では問題ないとされている風潮もあり,その解釈によれば,1)フセイン・マクマホン協定では,パレスチナやシリアの「沿岸部」はアラブ人の独立を認めていない,2)サイクス=ピコ協定では,パレスチナにユダヤ人が入ることは問題ない,3)バルフォア宣言では,「民族的郷土」という言い方であって国家の建国を認めるとは言っていない,ということでうまいこと噛み合っているので問題ない,という言い分になっている。

しかし,このイギリスの3つの政策はまったく不誠実な態度であるとされ,現在でもイギリスは中東国などから批判を浴びている。

19.アメリカが勝つ②

その後,ヨーロッパでいじめられていてぐちゃぐちゃだったドイツの中からヒトラーが現れた。

ポーランドに侵攻して第二次世界大戦(1939-1945)をはじめたこのヒトラーは,すごい勢いと軍事力でフランスやオランダをあっという間に侵略して大陸の支配者となった後,今度はイギリスに向かってきた。バトル・オブ・ブリテン(1940-1941)でドイツと空中戦をはじめるもドイツは東側で独ソ戦(1941-1945)がはじまってしまったのでイギリスからは撤退せざるを得なくなり,それによってイギリスは助かった。しかし今度はアジアの方のイギリスの植民地がどんどん日本に侵略される事態となり,それによってイギリスは領地を失っていくが,かくかくしかじかによって,最終的にはドイツと日本が無条件降伏することで第二次世界大戦は終結した。

そして,戦果を決定づけたアメリカはブレトンウッズ協定(1947-1971)によって正式に世界一の大国となり,疲弊した世界経済を立て直すためとして,世界は米ドルと金を中心とした新しい通貨システムを採用することとなった。また,軍事面では戦後も力を残していたロシアとアメリカの2大強国によって世界はふたつに分断されることとなった。この戦争では5000-8000万人が死んだといわれている。

20.イギリスが弱体化する②

イギリスはこの戦いに勝ったには勝ったが,国民は失われ,経済は弱体化し,アメリカへの膨大な債務をかかえることとなった。その後イギリスが弱体化したことでイギリスの植民地では独立の動きが強まり,インド(1947)やマレーシア(1963)などの植民地は次々と独立を果たすこととなった。

その後も植民地の独立運動はつづき,最後まで残った香港も中国に返還(1997)され,こうしてアメリカと入れ替わるようにしてイギリス帝国は終わることとなった。



それでは!



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