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安楽死とトロッコ問題

【書評】『安楽死が合法の国で起こっていること』児玉真美/ちくま新書

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 どうしてみんな「死ぬ」という選択しか考えられないのだろう。著者が言うように、「死ぬ権利」を認めてもいいけれど、同時に「生きる権利」も認められなければならない。
 免疫学者の多田富雄さんは67歳のときに脳梗塞で半身不随になり、発語はできず食物も自力では飲み込めなくなった。しかし、彼はそのときから「本当の意味で生きている」と感じるようになり、その日々を『寡黙なる巨人』(文春文庫)という本に綴った。
 「こんな状況になってまで生きながらえたくない」という人がいる。でも一方で、「こんな状態」になっても生きたいという人がいるのだ。いったい何が「生きたい」と「死にたい」を分けるのか。
 著者は安楽死反対ではないと言いつつ、安楽死の合法化には懐疑的だ。それは、どんな状況にある人間でも、「生きよう」と思える世界にしたいからだ。

 安楽死の問題は、有名な「トロッコ問題」に似ている。5人の人間を救うために、1人の命を犠牲にしてもよいか。そういう状況はもちろんあり得るだろう。でも実際のケースでは、「本当に全員を助ける方法はないのか」が常に模索されなければならない。一度でも「1人を殺していい」という理屈がまかり通ってしまえば、その次からはシステマティックに「少数派は犠牲にしてもよい」という結論が引き出されてしまう。それがこの思考実験の危険なところだ。
 安楽死も同じである。安楽死でしか救えない患者がいないとは言えない。それは悪魔の証明だからである。しかし同時に、「安楽死以外に方法がない」ということも証明できないのだ。
 安楽死を制度化してしまえば、「こういうケースでは安楽死させます」という機械的な思考で患者を「処理」してしまう事態が起こらないか。いや、安楽死先進国ではもう起きているのだろう。安楽死で個人を救うことと、安楽死を国家レベルで合法化することは、イコールではない。
(ブクログより転載)

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