自由意志は存在するか
𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす
脳科学の分野ではもはや定説になりつつあるらしいのだが、自由意志というものはどうやらわれわれの幻想のようだ。少なくとも、従来考えられてきたような意味での自由意志は虚構だった。
有名な話としては、「水が飲みたいからコップに手を伸ばす」とわれわれは思っている。ところが脳を調べてみると、「水を飲もう」という決定が発生するよりも一瞬先に、脳の方ではもうコップに手が向かおうとしているという。だったら、自由意志とはなんだ。
歩き始めるときに、どちらの足を先に出すか、考えてから足を出す人はいない。無意識にやっている。だが、「あなたは歩き始めるとき、どちらの足を先に出しますか?」と訊かれると、
「右足です」
「それはなぜですか?」
「右利きだからです」
つまり、無意識を含めた一連の決定プロセスを、後付けで上のように組み立てているのである。決定には内的要因以外にもさまざまなファクタが影響しており、それらの総体を「自由意志」と呼んでいるに過ぎないという。
これに対して、「水を飲む0.2秒前なら、動作を中断または中止できる」という研究結果もある。自由意志は存在する。ただし、0.2秒間だけ。そして、この場合の自由意志とはブレーキであり、アクセルではない。
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もうひとつ、自由意志には「存在拘束性」の問題があると思っている(カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』参照)。
労働者は、有給休暇は当然の権利だと思っている。しかし、経営者は逆だ。「金を払っているのだから、一円でも多く会社に利益を残せ。権利を主張するのはそれからだ。」この両者の考えは、自分の頭で考えて下した結論というよりも、それぞれの置かれている立場や状況に大きく左右されている。
「私はこの仕事に誇りを持っています」と言う方がいる。別にその信条を疑うわけではない。だが、その誇りは逆に仕事によってもたらされた誇りかもしれない。仕事がうまく行っているうちはそれでいいが、続けていれば当然嫌なこともある。そのとき、「仕事に誇りを感じている」という思い──あるいは、そう思いたい気持ち──と、いま直面している苦境の間でジレンマが生じる。これは、多くの社会人が経験したことのある悩みであろう。
「そんなに嫌なら辞めちゃえば?」他人だったら事も無げにそう言うだろう。それに対して本人は「そんな簡単に言うな!」と怒る。しかし、いざ辞めてみると「なんであんなことで悩んでいたのだろう」と不思議に思う。つまり、存在の拘束から自由になったのである。
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一方で、われわれはどうしようもなく自由意志を必要としている。なぜなら、自由意志が幻想なら、「アイツを殺したのは俺の意志じゃネエ」という論法が成り立ってしまうからである。冗談はともかく、われわれは社会を維持するために、自由意志というフィクションを生み出したとも言える。
茂木健一郎は、「自由意志という幻想を捨てれば、人間はもっと自由になれる」と言う。そうかもしれない。しかし存在拘束性の例でも見たように、そのようなフィクションがあればこそ、人間にはできることもある。科学がそのフィクションを暴くことで人類が幸せになるのか、それは知らない。
𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥
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