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日本語が通じない

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 20年前、「人に壁あり〜解剖学者 養老孟司〜」というドキュメンタリー番組が放送された(2003年、NHK)。その中に、ずっと気になっている場面がある。養老先生の講義を聞いた学生と、養老先生とのやりとりだ。

学生 (先生の話は)定義がわからないことが多い。
養老 言葉の定義というのは、言葉全体の中で決まってくるもので、一個の言葉をカチッと定義することはできない。
学生 自分の考えている意見を、なるべく正しく正確に伝えたい場合、言葉の定義をした方がいいのではないか。
養老 相手とのやりとりの中で、自分の考えは動いていく。あらかじめ自分の考えというものがはっきりあって、それを明瞭に言うことができるというのは──。
学生 じゃあ、変わってきた時点で定義を変えていけばいい。最初に定義づけをして、それから話し合ってだんだん定義づけを変えていくようにしないと、話というのはちゃんと伝わることはないのではないか。

その後も、「言葉の定義が先」と言って譲らない学生と、「常に動いている言葉というものを固定することはできない(意味がない)」という養老の議論は平行線をたどる。
 むろん、言葉の定義が必要な場合はある。しかし、私が気になったのは、この学生が「自分の考えを正しく伝える」ことに、尋常ならぬこだわりを持っている点である。そして、相手の話がわからないのは「定義がなされていないからだ(自分は悪くない)」という。ちなみに、このシーンはDVDではカットされた。学生の顔が長尺で大写しになっているので、特定されないための配慮だろう。だが、自分の話をわかってもらうことにのみ一生懸命で、相手の話をわかろうとしないという意味では、「バカの壁」を象徴するような一幕であった。

 ちゃんと説明してくれないからわからない。最近そういう意見をよく耳にする。ぼんやりとだが気になり始めたのは、新井紀子=著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)を読んでからである。ここで言われている「教科書が読めない」は、国語の教科書の文学作品が理解できないという話ではない。新聞や取扱説明書レベルの日本語が正しく読めない。数学はできても、数学の問題文を理解できないので正解できない。だからAIに負ける。そういう内容なのである。
 以前、岸田首相がウクライナを電撃訪問した際、ゼレンスキー大統領に必勝祈願のしゃもじをプレゼントした。戦争中の国に役に立たない縁起物なんか贈っても迷惑なだけだろう。そう書いたら、「迷惑だと思っているウクライナ人は一人もいない」と、アンケート結果までつけて反論してきた人がいた。贈り物をもらった側の人が、正直に「迷惑です」などと答えたりするわけなかろう。なるほど、「募ったが募集はしてない」と説明されて、簡単に納得してしまうわけである。
 まだある。NHK大河ドラマ「どうする家康」が放送中だが、寺島しのぶさんのナレーションが話題を呼んだ。気になるのは、このナレーションを「嘘ばっかり」と非難した視聴者がかなりいたことである。ナレーションは家康を「神の子」として持ち上げ、その偉業を誰かに伝えるかのような喋り方をしている。しかし、松本潤演じる家康は、恐くなると厠に逃げたり、戦でも危機のときにひとりでコッソリ逃げようとする。カリスマ性ゼロで、ヘタレを絵に描いたような人物。だからこそナレーションとのギャップが面白いのだが、そうした「演出」を理解できない人が一定数いるようだ。
 にわかには信じがたいが、「口では嫌いって言ってるけど、本当は好き」という表現も、近ごろは通じないことがあるらしい。好きな人に好きだと知られたくない心情は、小学生でもちょっとマセた女の子ならわかりそうだが、「好きなら好きって言うはず」と真顔で主張する大人がいる。「嫌い」には「心の中では好き」の意味もありますと、あらためて定義づけしてあげる必要があるだろうか。

 どうやら、行間が読めないどころか、行そのものも読めない日本人が増えつつあるらしい。書いてあることを文字通りの意味でしか理解できないとしたら、小説家はメシの食い上げだろう。だって、意味は必ず一通りに読めなければならない。いろいろな読み方ができるように書いてはいけない。それで小説が書けますか。「私はバカなので理解できません」そう言われたらおしまいである。バカにわかるように書かなかった作者が悪いのか。
 もし、言葉が意味という荷物を乗せて運ぶ輸送車なのだとしたら、言葉には「正しい意味」が内在していなければならならず、したがって同じ文章は誰が書いても同じ意味にならなければならない。それなら、私のLINEを「おじさん構文」などと言わないでもらおうか。言ってもいいが、その場合は書いたのが木村拓哉だとしても、同じようにバカにされなくてはおかしい。
 誰が言ったかで受け止め方が変わるのは、別に珍しいことではない。「よっ、お疲れさん!」と言われたら、あなたはどんな気持ちになるだろうか。それは、誰に言われたかによって違うと答えるのではないだろうか。友達なのか、同僚なのか、上司なのか。上司は上司でも、部下思いの頼もしい上司なのか、残業を押し付けてくる嫌な上司なのか。それによって全然変わってくる。言葉とはそういうものである。
 以前にも書いたが、京都人の「いい時計してはりますなあ」は思いやりなのか、それとも嫌味なのか。はっきりしてほしいと思うかもしれないが、それははっきりできないのである。なぜなら、上の「よっ、お疲れさん!」と同じで、誰が誰に言ったかで、意味は千変万化するからである。だから、言った方は嫌味のつもりでも、言われた方が思いやりだと感じたなら、それでも構わないわけである。それがコミュニケーションなのだから。
 その人がどういうつもりで言ったかが正解でしょ。そう思うなら、絶対に誤解が生じないように言ってみな。これは意地悪ではない。そういう言い方があるなら見せてもらいたい。それから、誤解が生じていないことは誰がどのように判定するのか。判定する人が誤解していないことを、どうやって証明するのか。「誤解する自由」とはよく言ったものである。安部公房は「絶望は希望の一形式である」と言ったが、私はそれに倣ってこう言いたい。誤解は理解の一形式である。


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