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人間様お断り

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 もう十年以上昔の話ですが、神奈川(だったと記憶しています)のマンションの屋上で子供が雪合戦をしていて、誤って転落するという事故がありました。ニュースやワイドショーでは誰の責任なのか、どうすれば未然に防げたのか、そればかり議論するのですが、私が考えたのはまったく別のことでした。それは、どうして子供がマンションの屋上なんかで雪合戦しなきゃいけなかったのか、ということです。つまり、他に遊べる場所がなかったのかと。だとしたら、それは大人たちが子供から奪ったのです。そうとしか言えません。
 しかし、現在では居場所を奪われているのは子供だけではありません。都会のある公園では、ボール遊びを禁止したために子供がいなくなり、犬の連れ込みを禁止して散歩に来る人がいなくなり、喫煙者の溜まり場になったので禁煙にして、ついに誰も来なくなったといいます。いったい何のための公園なのでしょうか。これは笑い話ではありません。むしろ怖い話です。なぜなら「人間様お断り」と、人間自身が人間にNOを突きつけているからです。
 ボールは近所のガラスを割ったりするからとか、犬は糞の始末をしない人がいるからとか、ひとつひとつは至極まっとうな理由だから仕方ない。そう思うかもしれません。しかし、それは思い違いをしています。なぜなら、これらは問題を持ち込まないようにしているだけで、問題そのものと向き合っていないからです。いわゆる「臭い物に蓋をする」というやつです。
 「危険だから」という理由で遊具が撤去されている公園も、最近は多いと思います。しかし、子供というのは本来危なっかしいものです。危険にさらしていいというわけではないけれど、危険をことごとく排除しようとすれば、子供自体が排除されることになります。「少子化ではなく少親化だ」という意見がありますが、親になりたくない、子供なんか欲しくない。そういう人が増えたのでしょうか。子供が減ったのは、われわれ自身が「子供なんていらない」、そう考えているからではないのでしょうか。そこにちゃんと向き合わなければなりません。
 「もしわれわれが、人間を、人間だがらという理由で大切にすることができなければ、やがて彼らを抹殺しよう、ということになるだろう。」これはカート・ヴォネガットの言葉です。人間はどうしようもなく愚かで、無駄なことばかりして、危険きわまりない生き物です。しかし、それらをひっくるめて人間全体を愛することができなければ、他者に向けられた刃は、いつか自分にも向けられるのです。だってそうでしょう。いちばんビリッケツにいる人を切り捨てれば、次はその一つ手前の人がビリッケツになるだけなんですから。そうやって際限なく切り捨てられるのです。そういう世の中を、社会を、世界を、われわれは望んでいるというのでしょうか。
(二〇二一年三月)


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