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加害者

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 安楽死の問題を考えるとき、しばしば見過ごされがちな論点があると思う。それは、誰がその役割を担うのかということである。露骨な言い方をすれば、誰に殺させるのかということである。
 海外では安楽死が合法的に認められている国もある。しかし、そこに関わる医師の少なくない人数が、数年と経たずに辞めていくと、ものの本で読んだことがある。正しいという信念を持って携わる人間が耐えられない。あるいは、ドクター・キリコのように平気な人間がいたら、その人にそんなことをやらせてもいいのか。
 絞首台のボタンは三人の手によって押されるという。誰のボタンが死刑囚を死なせたのか、押した本人にはわからない。自分が殺したという実感を抱かせないための措置である。それでも、ボタンを押したという行為は、やはり重くのしかかってくるのではないだろうか。
 いっそのこと、機械に安楽死をやらせればいいだろうか。患者を機械に繋いでおき、いつ実行されるかは機械がランダムに決める。さぞかし便利であろう。安楽死が合法化されたら儲かるかもしれない。だが、その機械を作るのは人間である。そのようなビジネスに関わる人間の気持ちとは、一体どんなものであろうか。
 自分の意志を伝えることもできず、窒息死を待つだけの境遇は、想像するだけでも恐ろしい。当事者が安楽死を望む切実な思いを、他人であるわれわれが簡単に否定することはできない。しかし一方で、同じ病を抱えながら、生きることになお価値を見出している人もいる。両者を分けるものは何なのか。死んでもらうのではなく、生きてもらうためには、何が必要なのか。
 殺すということは、殺される人間と、殺す人間がいるということである。被害者と、そして加害者を生む。殺すことができる世の中にしたいなら、誰かを加害者にしなければならない。それは、自分も加害者になり得るということである。殺せない人間に、安楽死を許す資格があるだろうか。
(二〇二〇年七月)


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