フレーゲ・ギーチ問題とウィトゲンシュタイン

メタ倫理学でのフレーゲ・ギーチ問題とウィトゲンシュタインの「主体用法」の関係を考えます。

フレーゲ・ギーチ問題

(メタ)倫理学の立場の一つとして、エイヤーが唱えた「情緒主義」というものがあります。これは、善悪に関する言明は語っている人の感情を表しているにすぎないというものです。例えば、「人を殺してはいけない」は「人を殺すなんて(怒)」という感情の発露に過ぎないんだ、という主張です。

フレーゲ・ギーチ問題は情緒主義への批判として提示された問題です。次のような推論を考えます。

前提1. ものを盗んではいけない

前提2. ものを盗んではいけないならば、人にものを盗ませてもいけない

という前提から

結論:人に物を盗ませては行けない

これは正しい推論のように思われますが、情緒主義ではうまく解釈することができない、という主張です。 上の道徳的な言明を情緒の表出として表現し直してみると

前提1’. ものを盗むなんて(怒)

前提2’. 物を盗むなんて(怒)ならば(?)、人にものを盗ませてもいけない

という前提から

結論’:人に物を盗ませるなんて(怒)

条件文「物を盗むなんて(怒)ならば(?)」が非文に見える、というのがポイントです。

私はこの情緒主義に対する批判は誤りだと思います。「ものを盗むなんて(怒)」から「私は物を盗むという行為について怒りを感じる」という記述文への移行を許せば、上の推論は成り立つからです。表出から記述を推論できれば上の推論は正当化できます。

ウィトゲンシュタインの感覚言明の文法

ちょっと話を変えて、ウィトゲンシュタインの感覚言明に関する議論を取り上げます。ウィトゲンシュタインは「痛みを感じている」という文章に「客体用法」と「主体用法」があると言います(青色本の後ろの方)。客体用法とは「ウィトゲンシュタインが蜂に刺されて痛みを感じている」というように第3者的な観点から感覚を記述する用法です。主体用法とは「私は蜂に刺されて痛みを感じている」という文です。

ウィトゲンシュタインによれば、主体用法は「私」に関する事実を記述しているのではなく、私の痛みの「表出」です。ウィトゲンシュタインは「痛い」という語の学習過程を考えます。痛い時、赤ん坊は泣きます。言葉を習う過程で、泣く代わりに「痛い」というように訓練されるのだ、というのです。また、「私は痛い」の「私」は対象ではなく、続く「痛い」が記述ではなくて表出であることを表すマークだと考えます。

なお、記述と表出がどう違うかですが、記述は間違っていることがあり得ます。一方、表出は第3者が間違っているということはできません。泣いている赤ん坊に「痛くありません!」と叱ることは不適切だということです。

しかし、ウィトゲンシュタインの考えにはフレーゲ・ギーチ問題が成り立ちそうです。

前提1. 私が蜂の針に刺されることを感じる

前提2. 蜂の針に刺されることを感じたら、痛みがやってくる

という前提から

結論:私は痛みを感じるだろう

というのは正しい推論に思われます。しかし、ウィトゲンシュタインの考えだと前提1と結論は表出であり記述ではありません。前提2の条件文が表出であることは考えにくいですから、主体用法の「私が蜂の針に刺されることを感じる」から客体用法の「L.W.が蜂の針に刺されることを感じる」が推論できなければならず、また、客体用法の「L.W.に痛みがやってくる」から「私に痛みがやってくる」が推論できなければなりません。

ウィトゲンシュタインが主体用法と客体用法を区別するのは、客体用法は間違えることがありえるが、主体用法は本人がそう言った以上本人以外は訂正不可能であるという特徴のためです。しかし、主体用法と客体用法が相互に推論可能なら、主体用法と客体用法の区別はこの特徴の説明に失敗しているように思います。

まとめ

フレーゲ・ギーチ問題を使ってウィトゲンシュタインの感覚言明の文法に関する議論を批判しました。


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