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ジャーナリングから深める「対話者として深めていくために、向き合いたい問いとは」

ジャーナリングでコーチングと向き合う。
後半のテーマは以下のものだった。

あなたが自分自身のコーチングや、コーチ・対話者(もしくはその他のご自身が目指す存在)としての自分をさらに深めていくために向き合っていきたいのはどんな問いですか?

「問い」をつくるということが思いのほか難しく、苦慮しながら3回書き直した。

深めるために向き合いたい「問い」と言われ、正直どこから手をつけたらいいのか惑った。

なのでまずは、下手くそでもただひたすらに問いを出してみたのが第1稿だった。

途中で過去からの追体験をなぞろうとしたのだが、次第に脳内での思考と感覚の連想に進んでいった。

何を深めたくて、何と向き合いたくて、そのことを「思い続けるための問い」とはどんなものなのかという、いくつかの考えるステージがあったと思う。

そして、ひたすらに浮かんだものを打ち込んでいく中で、過去に思考した考え(テーマ①)や、興味関心のある部分から(言葉漢字の成り立ちとの向き合い)など経て、「打ち込んでいて自分が楽しくなるもの」が浮かび上がってきた。

それが「楽」という言葉だった。

「たのしい」と「らく」という意味をあわせ持つ言葉。

ここと向き合うことが、自分が生きていく上で、自分の対話が深まる上で、まず大事になると感じた。その上で、他者への影響も及ぼせるように役立つだろうという視点も加えていった。

「楽」という言葉を問いにしようとしたとき、「楽になるには?」「楽であるには?」「楽になるとは?」「楽であるとは?」といった、問いかけ方に悩んだ。

「には」では方法論的な方向が。「とは」では概念的な方向を感じ、進み方が変わってきそうだった。

「互いが楽であり、癒しを起こすには」

手詰まったとき、行き着いたと感じた時、思考をさらに進めるのはエネルギーを使うことだったが、諦めずに、もう一回踏み出す。

…と思ったが、1日置くと、なんだか取り繕った言葉に感じてきている。

ざらつく。違和感。表面的。

そんな感覚が膜をはる。



そんな時間を過ごしながら、
最後は、岩盤浴で寝転んで瞑想をしていたときに浮かび上がってきたものを手繰り寄せて進めた。

これが現在の自分への問い。
対話者としてさらに深めていくために、向き合っていきたい問いである。

*岩盤浴に行き、寝ながら瞑想*

その中で、浮かび上がったものがあった。

「どうすれば、その奥に、辿り着けますか」

日々思考したり止まったりしながら、
今いる地点が上記の問いである。

コーチ・対話者としての自分をさらに深めていくのに、
向き合っていきたい問い。

「どうすれば、その奥に、辿り着けますか」

対話を介して、自分や相手に
心が震えるような変容が起きたとき、
そのやりとりの質が高まり深まると思う。

それは極端にいうと、
うわべだけの会話が起点になることと、
魂からの声が起点になることとの違いがある。

つまり、どの地点に起点を置けるかが、
意志のつよさや、変容の大きさ、今後の人生への影響、自分らしい選択、
それらのことが変わってくる。

そのうわべの部分から、
一段一段階段を下りたり
扉を一扇一扇開けたり
まくを一枚一枚剥いだり
ステージをひとつひとつ飛び降りたり
霧をかき分けていったり、吸い込んでいったり

その場その時その人の状況によって
手を変え品を変え
奥に向かっていく。

そこには、見栄だったり、取り繕いだったり、自衛だったり、
回避、直視しない、認知していない、言語化できていない、
遠慮、恐怖、自信のなさ、否定、どうせ自分なんて、
逃げ、思い違い、思い込み、決めつけ、他からの影響、
(思い浮かんだら付け足すが)様々なものが覆っている。

そうすると、始めはその覆っているものの上で話をする。
奥からの声がフィルターを通して言葉になる。

そうなっていると、その言葉が起点となり、
今後の命の時間を費やすことになる。

ぼくはそれを望ましいこととは思わない。
なぜなら、それでは自分というものが満たされないし、
満たされなければ愛することも自信を持つこともできず、
幸せに向かうことがむずかしいからだ。

自分を幸せにできるのは、まず自分である。

人から幸せをもらえるときは、たまたま自分の奥のものを感じ取ってくれるか、
その行いが奥のものに偶然ヒットした場合だ。

自分を幸せにするために有効なのは、まず自分自身を知ることである。

自分が、なにを幸せと感じるのかを知ることである。

そして、それを自らの五感で体感させるために、
アウトプットして形にしたり、奏でたり、つくったり、それが在る場に身を置いたりして、
自分が幸せだと思うことを、自分自身のために体感させてあげることだ。

そうすると、自分が幸せだと思うことを取り込むことができ、それが栄養となる。

自分にとっては、最高の栄養だ。

そうしてより活力が増し、より気づきやすくなったり体感しやすくなったりしていく。

その巡り、その循環を起こしていく。幸せになるための循環を。

それは循環であり、共振になる。自分との共振。他との共振。

その起点を探求していくのが対話である。

その対話で、身体の奥の、心の奥の、とらわれのない、自分自身のものに辿り着く。

それを実現できる存在になりたい。なっていく。なっている。

そうなるには、
どんな知識が必要だろうか。
どんな自己である必要があるか。
どんな修練がいるのだろうか。

また、
相手にどう問いかければいいだろうか。
どう伝えればいいだろうか。
相手をどう感じればいいだろうか。
どこに奥へ進むポイントがあるだろうか。

身体的・精神的・言葉

いま現れているものと、まだ表れていないもの
その背景。背景の理由。
何が、その奥からつながる一筋だろうか。

それを感じ取る力、ゆとり。
それを表に出せる安心をどう用意するのか。

ときには引っぱり出す強さと覚悟がいるかもしれない。
ともに背負う勇気がいるかもしれない。

それをもつには、どんな心構えがいるだろうか。

ともに向き合っていく。
その入り口となる問いが

「どうすれば、その奥に、辿り着けますか」

ということばだ。

丁寧語にも意味がある。
敬意と謙虚を忘れないため。土足で踏み込むようなことをしないため。

そこには
存在するものを信じることと
その奥にあるゆらぎを感じる努力と
感じるための成長を目指す自分への鼓舞と好奇心と
その幸せの循環が巡ることができた自他の世界の実現が
込められている。

このことばを心に置き、感じ、動いていってみる。
これはコーチとして対話者としてのことかもしれない。

前半はこちら。


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