弁護士視点からの「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」解説〜第9話

初見時はリアルタイム視聴していたため、中盤以降のエピソードはまだ配信されていませんでした。もちろん韓国では放映終了していたので、ネットで様々な情報が入ってきていました。第9話は今か今かと待ちわびて配信初日に視聴しました。なぜなら「D.P.ー脱走兵追跡官ー」で唯一無二の芝居を見せてくれたク・ギョファンが登場するからです。小学校から塾への送迎バスの最前列でダジャレをいいながら(韓国語が分かれば原セリフも楽しめるのに残念…)振り向き顔を見せるパン・グポン。この人の芝居にはいつも心を鷲づかみにされます。
なお日本では、氏の変更には「やむを得ない事由」が、名の変更には「正当な事由」がそれぞれ家庭裁判所で認められる必要があるので、長年その氏や名を通称として使用してきた等の事情がない限り、本名を変更するのは容易ではありません。

パン・グポンとの接見では、第6話と異なり、われわれ日本の弁護士が慣れ親しんでいるアクリル板の遮蔽がある接見室です。裁判所内接見室での接見だからでしょうか。後の場面で拘置所での接見時は、第6話と同じく遮蔽のない会議室のような場所で接見していますね。なお日本の接見室のアクリル板には、このように指2本を差し出せるような大きな穴は空いていません。そこから物や手紙の受け渡しを防ぐためです。

十分な打ち合わせもできないまま勾留質問が始まります。弁護人であるヨンウが同席しています。接見時にグポンは弁護士不要と言っていたけど、ヨンウは勾留質問に同席する了承を得たのでしょう。傍聴人がいないので非公開手続だと思われますが、場所は法廷です。ヨンウが懸命にグポンに助言している内容から推測するに、住居不定で無職、要するに法律の建前通り逃亡もしくは証拠隠滅の恐れがない限り、身体拘束はされない運用がなされていることが覗えます。
日本では勾留質問は法廷ではなく、狭いそれ専用の部屋で行われます。弁護人は同席できません。ですからヨンウのように被疑者にアドバイスすることは日本の弁護士には出来ません。事前にアドバイスすることはあるにせよ、勾留質問のときは被疑者は単独で裁判官と対峙することになります。
勾留決定時に勾留状が発布されますが、そこには結論しか書かれていません。そこで勾留した理由を確認するための手続として勾留理由開示請求がありますが、被疑者もしくは弁護人から請求しなければ開催されない上に、開催されたところで日本の裁判官は「相当な理由がある」と抽象的文言を繰り返すだけで具体的な理由については一切回答しない運用がなされています。
勾留質問時の裁判官と被疑者の応答は勾留質問調書という書類に記録されていますが、起訴されるまで弁護人はその調書を読むことが出来ないので、日本の弁護人は捜査段階では勾留質問の内容を法律の素人である被疑者自身の口から聞くしか知る術がありません。
ともあれ、身体拘束されることを一切気にしないグポンのキャラクター造形は見事で、日韓刑事司法実務の格差に愕然としながらも、ク・ギョファン・ワールドに益々ハマってしまいます。裁判官から住所を問われ「子どもの心の中に生きてます」と答えたとヨンウがハンバダの会議室で報告しますが、自分の脳内ではグポンの声で再生されます(國本は韓国語は解しません)。

今回もまた第2話や第3話と同じく、法律事務所と契約して弁護士費用を支出する実質的なクライアントと、訴訟上のクライアントがズレるケースですね。その方がドラマとして面白くなりやすいからかもしれませんが、刑事弁護事件ではよくあることなので不自然ではありません。

減刑は母の望みで 僕の望みではありません

これまでのエピソード以上に分かりやすく出ていますね。
今回も弁護士費用を出している母親は有名進学塾経営者の有力クライアントですから、ハンバダからすればこの事件で成果を上げれば顧問契約その他各種仕事に結びつく可能性があります。経営的に見れば優先したいのは母親の意向でしょう。しかし弁護人に刑事弁護を依頼しているのは、被告人本人です。弁護人が被告人本人の意向に反する行動を取ることは、倫理違反となります。

今回さらに難しいのは、被告人本人が執行猶予や刑期の減免など、より軽い量刑の獲得を望んでいないことです。そのため、不利となる言動を隠そうとしません。
これまでの解説で繰り返し、弁護士の任務はクライアントの利益を実現することと書いてきました。では何が「クライアントの利益」であるかにつき、クライアント本人と弁護士の意見が食い違ったとき、弁護士はどうすべきでしょうか。クライアント本人が自分の見解を通したときの不利益に気付いていないことがあります。その点を指摘するのが専門家たる弁護士の役割です。では弁護士がそれを適切に説明してクライアントがその説明を正確に理解した上でなお、弁護士と異なる見解を維持したときはどうすべきか。最終決定権はクライアント本人にあります。なぜなら訴訟の当事者はクライアント本人なのですから。

彼らはこの国の法と制度を操り、忙しく健やかでない子供をつくり、世界に背を向けさせる

グポン独特の言い回しは大仰に聞こえるかもしれません。しかし日本は再三再四、ほぼ同様の勧告を国連子どもの権利委員会から受けています。子どもの権利条約第31条で規定している「遊ぶ権利・休む権利」を侵害しているとの指摘です。
野井真吾氏の論文「国連子どもの権利委員会の「最終所見」にみる日本の子どもの健康課題の特徴― “競争的な社会”における子どもの状況に着目して―」によると、競争主義的な教育制度の改善勧告を受けているのは日本・中国・韓国の3ヵ国だけとのことです。

「国連子どもの権利委員会の「最終所見」にみる日本の子どもの健康課題の特徴― “競争的な社会”における子どもの状況に着目して―」https://www.jstage.jst.go.jp/article/educationalhealth/28/0/28_3/_pdf

公判シーンが始まり、迂闊にもこの第9話で初めて気付きました。韓国の法廷では、被告人は弁護人と同じ席に並んで座っていますね。日本の刑事訴訟では、被告人は弁護人席の前にあるベンチに座らされています。
公判が始まるなり、被告人と弁護団との齟齬が露わになります。これまでの接見でのやり取りでグポンが一筋縄ではいかない人物であること、グポンと母親の意見が違うことは分かっているので、弁護団が無策で初回公判に臨むことはまあ現実にはあり得ないかなと思います。検察が舞台の韓ドラ「秘密の森」などを見るに、韓国の検察は今や日本ほど詳細で長大な調書は作成していないようですが、それでも被告人や証人の言い分をまとめたものは作っており、それらは事前に弁護人に開示されているはずです。であれば、グポンが睡眠薬混入を認めていることは当然分かっていることです。
グポンの発言を「そのまま記録して下さい」と裁判長が言います。これは裁判所書記官への指示です。公判調書という書類に記録するよう指示しているのです。日本の刑事訴訟では、このような被告人の公判での発言を記録した公判調書は、判決を下すための証拠になり得ます。このシーンの文脈を見る限り、この点は韓国でも同じなのでしょう。

保護者の了解を得ずに「被害者」である小学生児童たちにアプローチすることは、バレたら一発アウトでまず間違いなく懲戒請求をされるので、自分ならまずやりません。しかしここからが韓国社会の課題にまっすぐ切り込む本話の最も意欲的かつ感動的な場面なので、ドラマとしては全然OKだと思います。というか、むしろこれでこそ「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」でしょう。
夜の9時10時まで外で勉強している子がグポンの名を聞いた途端に破顔し、一緒に採ってきたドングリを筆箱に入れて大切にしている、演出としては分かり易すぎるかもしれないけど、自分はいつもこの場面で涙します。ところで「鍵クラス」とか「ミッション」なるものは、実際に韓国の進学塾に存在するものなのでしょうか。描き方からすると、実話に基づいているように見えます。
「被害者」の1人、イ・セウォンがヨンウに耳打ちします。子どもの権利条約は、子どもに関わることについて決定するに際し、必ず子どもの意見聴取プロセスを経るべしと規定しています。子どもたちの意見を弁護方針に反映させたヨンウの行動は、子どもの権利条約の精神にも適うものだと自分は思います。

忘れもしない今から20数年前、自分の結婚披露宴を終えた翌日、少年の付添人(少年事件版の弁護人みたいなものです)として母親を伴い、被害者の家を訪ねました。事前に電話した際は被害者の親御さんは怒り心頭で、アポを取ることすら一苦労でした。ところが母親が頭を下げて真摯に謝罪すると、途端に態度が軟化して驚きました。子は親の思うように育たない、その苦悩という共通ベースがあるためか、被害者の親でありながら加害者の母親に共感するところがあったようです。
その経験があるので、グポンの母親が土下座して自分の思いを口にしたとき、保護者である母親たちが戸惑いながらもそれまでの攻撃性を消失し、最終的に嘆願書に署名したのは、自分にはとても自然な場面に感じました。

次の公判で、弁護団は被告人に妄想性障害があると立証する方針を採ります。これもどう考えても弁護士倫理違反でしょう。
われわれ弁護士は、本話と異なり、明らかに被告人には何らかの障害があるケースにまま直面します。弁護人としては少しでも量刑を軽くしたいので、被告人にその事情を訴訟で出すことを提案します。しかしそのことを了承しない人たちもいます。その特性ゆえに馬鹿にされ、けなされ、酷い目に遭ってきているのです。本人にとっては絶対に触れられたくない部分なのです。被告人本人が明確に反対の意思を表明している以上、弁護人は障害や特性を法廷に持ち出すことはできません。
本話でも、もし被告人であるグポンにこの方針を事前に提案していたなら、彼は了承しなかったことでしょう。グポンにとっては子ども解放は、誇大妄想ではないからです。

裁判長から「反省しているか?」と問われ、グポンは黙秘権を放棄し「反省していない」と明言します。
弁護人は被告人との事前打ち合わせで、法廷では何をもって反省と評価されるかを入念に打ち合わせするので、被告人本人が反省しているかどうかは当然に分かっています。その際、減刑を得るために反省を表明すべきことも弁護人はアドバイスします。それでもなお被告人が「反省していない」と言いたいと言うのであれば、それを尊重するのが弁護人のあるべき態度だと自分は考えます。それも含めて被告人を弁護するのが弁護人のはずです。
ヨンウの「私は被告人の弁護人として被告人の思想そのものを弁護したいのです」という意見表明に、自分はおおいに共感します。
なお、刑事訴訟は思想を広めるための場ではないとか、一般的なセオリーからするとヨンウの態度は被告人に不利になると指摘するなど、裁判長の法廷での言動はリアルで、この辺りは細かいながらも精密に作られているなと毎度のことながら感心します。その上で、裁判長が被告人本人に見解を問い質すという流れにつなげるのだから、リアルさとドラマらしさの塩梅が素晴らしいなと思うのです。ミョンソクが裁判長に黙秘権を告知するよう求めて介入するのも、これがあるだけで法廷ドラマとして決定的にリアリティが出てくるのです。

幸せな思い出をあげたかったのに
解放軍たちが”思い切り遊んだ代償が懲役刑か”
そう思いそうで怖い
解放軍総司令官として堂々と処罰される姿を見せたいです
”自分がしたことをただの一度も恥じてない”と

ミョンソクたちがグポンの要望を聞き入れ、「被害者」である子どもたちを傍聴させようと奔走するのは、弁護人の在り方として正しいと思います。単に被告人がそれを望んでいるからというだけでなく、傍聴すれば自ずと子どもたちとグポンの関係が法廷で表出するので、裁判官や陪審員たちに良い心証を与える可能性があるからです。今度はちゃんと保護者の了承を取っているのだから、多少は甘言を弄しているものの嘘はついてないし、弁護士倫理上も問題ないと考えます。
ところでミョンソクはソウル大学在学中に司法試験合格と自己紹介しているので、韓国でも彼の世代ではまだロースクール制度は導入されていなかったようですね。

子供は今遊ぶべきです
あとではいけません
石倒し かくれんぼ 馬跳び ゴム跳び
あとでは遅すぎます
不安だらけの人生では 幸せへ続く唯一の道はもう探せない

1つ 子供は今すぐ遊ぶべし
2つ 子供は今すぐ健康になるべし
3つ 子供は今すぐ幸せになるべし

人が苦難に直面し、心にダメージを負ったとき、自らそれを修復する機能ないし特性をレジリエンスと言います。もともとは金属分野の用語だったのが、心理学に応用されたもののようです。子ども時代の遊びとそれに伴う幸せな体験は、レジリエンスを培うと言われています。
パン・グポンは、自身の刑事裁判を子どもたちにとってのトラウマ体験にすることなく、むしろレジリエンスを培う体験にしたのだと自分は理解しました。

傍聴席で子どもたちが一斉に不規則発言をすると、裁判長が途中で介入します。やはり訴訟指揮の描き方がリアルです。ヨンウが被害者の意見陳述として裁判所の裁量で認めてくれと主張します。裁判官たちが互いの顔を見て協議します。ここもリアル。協議結果が出る前に、隙を突いてグポンと子どもたちが続きを始めてしまいます。ここの演出がとても良いなと思うのです。協議結果が出てしまったら、肯定であれ否定であれ、途端に流れがチープになってしまいます。

子どもたちが廷吏の制止をものともせず、グポンに駆け寄って口々に話しかけます。その様子を陪審員たちに見せられた時点で、弁護団の方針が成功したと言えるでしょう。あれだけ悪態をついていたミヌですら、微笑みながら見守っています。

判決の結果は本話では出てきません。そこを描くのは無粋というものでしょう。






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