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「有機農業と慣行農業: 土と作物からみる」を読んで

松中照夫さんの「有機農業と慣行農業: 土と作物からみる」という本を読みました。とても読みやすく、説得力があり、また多方面への配慮が感じられる内容だと感じました。

読みながら気になった内容のメモと感想を書きなぐってみました。
読みにくいとは思いますが、書くハードルを上げすぎないように、このまま投稿してみます。
(慣れてなくて、これでもかくのに結構時間がかかってしまいました…)

読書メモ

本に書いてあった内容を主観で抜き取ったりまとめたりしたメモを書きます。

  • そもそも作物は化学肥料だけでも育つ

    • 水耕栽培でもちゃんと育っている

    • ローザムステッドという化学肥料販売の創始者の試験農場で、化学肥料のみを使って180年も栽培し続けることに成功している畑がある

      • “創始者”なのでこれ以上長い実証実験は存在しない

    • 有機態の必須養分は発見されていない

  • 化学肥料が土をダメにする、ということはない

  • 有機農業の国際的な定義がある

    • IFOAM(国際有機農業運動連盟)による定義

    • 有機農業は、土壌・自然生態系・人々の健康を持続させ る農業生産システムである。それは、地域の自然生態系 の営み、生物多様性と循環に根差すものであり、これに 悪影響を及ぼす投入物の使用を避けて行われる。有機農業は、伝統と革新と科学を結び付け、自然環境と共生し てその恵みを分かち合い、そして、関係するすべての生 物と人間の間に公正な関係を築くと共に生命(いのち) ・生活(くらし)の質を高める。

  • 作物は養分なしでは生きていけない

  • 収穫とともに養分は農地から持ち出される

  • 農地は存在すること自体が環境破壊

    • 人間活動が自然環境の力より弱い段階では大きな問題にならなかった

  • 有機農業でも慣行農業でも栄養や食味にはほとんど大きな差は見られない

    • 差があるところはあったけど、それは有機だからというよりは、有機をやってるとそうなりがち、というものであって、有機であることに直接由来するものではない

    • 与えられた養分源が有機質か無機質かというよりは、与えられた吸収可能な養分量の違いや水・温度・光などの栽培環境、農薬の使用の有無に強く影響を受ける

  • 産業革命以降、世界人口が爆発的に増えた

  • 一方、優良な栽培条件を持つ農地は世界的に見ても拡大の余地がほとんどない

    • 一定の土地面積あたりの収量をあげないことには供給が追いつかない

  • そこに化学肥料は大きく貢献してきた

  • そしてまた世界人口は増えていく

  • 産業革命後のイギリスでは農村と都市の分業が進んだ

    • 畑から養分を含んだ収穫物は持ち出され、それを食べた都市の人間は排泄物を窓から投げ捨てて都市の衛生状況を悪化させた

  • リービヒという人物はその状況を見て、土の養分を持ち出して消費するだけの「略奪農業」では持続可能性がないと批判した

  • リービヒは理想的な養分循環のモデルとして当時(江戸時代)の日本をほめたたえた

    • 大都市江戸の消費者のし尿が農地に還元される経路が確立されていた

  • リービヒは、植物が直接的に養分とするのは無機質であるとの無機栄養説を唱えた人物でもある

  • 化学肥料はいつかはなくなる

    • リン・カリは鉱石、チッソは空気中の窒素を使うが生成の過程で必要な水素ガスや高温高圧という条件を得るために化石燃料を利用

  • 日本はこれらを輸入に頼らざるを得ない

  • 有機農業では収量は下がるし、収入を得るという面では不利な点がある

  • 有機作物は安心安全というわけではない

  • 「有機農業だけが絶対である」との思い込みを拭い去ってほしい

  • 今、慣行農業をなくせば日本は食糧危機に陥いる

感想

有機だからといって収穫できるものは慣行とは変わらないと考えたほうがよさそう。また、できあがった収穫物だけを見て価格に転嫁できるものはないと考えた方がよさそう。でも、だからといって化学肥料・農薬に全部お任せでよいかというと、それはちょっと危うい気もする。久松達央さんが小農ラジオというpodcastでおっしゃっていた、「本来、有機と慣行はグラデーションの話でしかない」という話を思い出す。

IFOAMの有機農業の定義は純粋に良いなと思った。化学肥料の元となる資源が限られていて輸入に頼っている、という話は怖いと感じるし、既に値上げという形で表面化している。かといって、有機農業をやると息まいて、化学肥料の代わりに、広く流通した有機肥料を買ってやるのもなんだか違う気がするような(たぶん駆け出しのときはそうせざるを得ないんだろうけど)。
真剣に「循環」を考えると、江戸時代以前のように人間のし尿を畑に返すのがよいんだろうなとは思いつつ、今それをやるのは気持ちや諸々の問題的に厳しいんだろうなとも思う(自分もちょっといやだなと思ってしまう)。

産業革命。人口が増えてしまったこと、まだ増え続けるであろうこと。僕はそもそもそんなに意識高く生きてきた訳ではないし、自分の生活を投げうって環境問題に取り組みたいと考えるような生き方はたぶんこれからもできない。でも、やっぱり人は進みすぎた、人は増えすぎた、とは感じてしまう。江戸時代に帰らなければと思う。でも、僕は18歳で大きめな病気をしたけど、各種技術の進歩がなければ、そのときに死んでたんだろうなと思う。僕としては死なずに済んだことに感謝するしかない。産業革命前にも、「今の時代からは見えにくいもっと不都合なこと」はたくさんあったはずで、また現代では、「当たり前すぎて気付かない恵まれていること」は多くあるんだと思う。

産業革命当時、化学肥料のない農業だけでは越えられない壁があった。「乗り越える必要なんてなくてこんな世の中になるべきでなかった」と考えることもできるかもしれないけど、人間の限りない欲望を考えるといずれはそうなっていくもので、止められるものでもなさそう。そう考えるとこれからの世界も、産業革命前の農業を再現するだけでは無理で、当時からは何か新しい発明と組み合わせないことには厳しいということ。

そういうことを意識して今の技術を学んでいければよいのかな、と思った。


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