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四月の読書:『デスマスク』

 暖かい日が多くなってきましたね。みなさまはいかがお過ごしですか?
 今月は『デスマスク』(岡田温司、岩波新書)を読みました。一見ぎょっとするタイトルですが、これまでの私の関心にもつながってくるテーマが扱われています。

概要・感想

 この本では、主にヨーロッパの歴史の中でデスマスクが扱われてきたいくつかの局面を取り上げることにより、それぞれの時代でデスマスクが果たした役割や、そこに投影された人々の世界観などが分析されている。
 各章はほぼ時代順に構成されているが、それは必ずしもデスマスクの役割の時系列的な移り変わりを記述しているのでも、各時代の特異さばかりを強調しているのでもない。むしろ、権力や信仰、死生観などをめぐるある両義性(「サケル(聖なる/呪われた)」)が、それぞれの時代にさまざまな形をとって浮かび上がってくる様子が中心的に描かれている。

 さて、各章で興味深かったのは、まず第2章で紹介される「王の二つの身体」という概念だ。王は現実の生身の身体(人性)と現実を超越した不死の象徴的身体(神性)をあわせ持っていたとするカントーロヴィッチの研究である。
 中世のイングランドやフランスの王の葬儀では、デスマスクをもとに作られた精巧な人形が儀式の主役となり、まるで王その人が生きているかのように演出された。
 カントーロヴィッチによれば、こうした儀式は王が死んでもその権威は維持していること、王権が不滅であることの演出であり、古代ローマにおける皇帝の神格化の儀礼ともつながっているという。
 しかし、それにしても、儀式のために人形まで作ってしまうのは現代の感覚では何かが過剰な感じがする。第7章で触れられる蝋人形館への欲望の根源は、この時点で萌芽していたのかもしれない。

 世俗の権力を有する王が「二つの身体」によって神格化されるのとは対照的に、教皇一人ひとりは死すべき存在であったという第3章の指摘も面白い。
 教皇は「塵は塵に」という思想を持つキリスト教を代表する存在である。また英仏の王室と違って世襲の権力ではないため、特定の教皇が不死のまま存在し続けてしまうと次代の就任に都合が悪いのだ。ゆえに、人形を用いた葬儀が行われた記録は残されていない。とはいえ王の葬儀の影響を受けてか、葬式自体は荘厳なものであったようだ。
 また、世襲ではない以上、その選出に関わる枢機卿たちが大きな力を持つことになる。王と違って、教皇の権威は彼らによって維持されるのだ。

 第5章で詳述される、ポール・ロワイヤル修道院におけるジャンセニストたちの思想はうまく理解できなかったが、もう少し詳しく知りたくなった(特に、レアリテとフィギュールについての議論)。
 また聖顔布が一種のデスマスクであるという指摘や、それが人の手によらずに成立したものであるがゆえに、肖像に否定的なジャンセニストにも受け入れられていたという話が面白かった。

 デスマスクの持つ両義的な側面について特に理解しやすいのは、第6章のフランス革命に関する記述だろう。
 革命においては、王権を徹底的に否定するために、歴代の王の墓が破壊された。一方、殉教者たるマラーの死に際して、かつての王の葬儀にも似た大規模な葬儀が計画され、デスマスクを元にしたと思われる人形まで作成されたのだ(なんという皮肉だろう)。民衆を統率して権力を誇示するためには、思想の内容に関係なく、その権力の不死性や超越性をアピールする必要があるようだ。
 また、ルイ16世やマリー・アントワネット、ロベスピエールなどギロチンで斬首された者たちもデスマスクがとられ、それをモデルに蝋人形が作られた。見世物として人気を集めたようだが、これはデスマスクの持つ「呪われた」側面にスポットライトの当たった状態といえるだろう。ただし、破壊された王の墓のように、それは「聖なる」側面とも表裏一体であり、簡単にひっくり返りうるのだ。
 この時代、上記のマラーなど多くの著名人のデスマスクをとり、処刑された者たちから蝋人形を作ったマリー・タッソー(蝋人形館で有名なマダム・タッソー!)という人物が、個人的にはとても気になる。回想録が出ているようなので邦訳希望。

 第7章の天才崇拝の時代が19世紀であり、その後は写真技術が普及していく(この章で取り上げられたヴィクトル・ユゴーは、デスマスクと死の床の写真の両方がとられている)。
 一時的なムーブメントがあったとはいえ、死後写真がデスマスクの代替手段として使われ続けている様子はない。現代日本においてはむしろ、遺体を撮影するのはタブーに触れる感触がある。
 生前の姿がいつでも見られるようになれば、故人を偲ぶよすがは死顔でなくてもよいということなのだろうか。だとするとデスマスクへの偏執的ともいえるこだわり(ライフマスクではなく)は何だったのだろうか。そして今はなぜかえってタブーと化しているのか。これも「サケル」の両義性と関わってきそうな問題だと思う。

 この本の記述の中心はデスマスクの役割の変遷にはないとはいえ、古代ローマにおける先祖崇拝(第1章)を除けば、時代が下るにつれてその対象がより人々にとって身近なカリスマに及んでいる印象がある。第4章で紹介されるルネサンス期の技術の進展などによってデスマスクの量産体制ができたり、商品として流通するようになったということだろう。
 そして第8章の「名もなきセーヌの娘」にいたっては、その対象は身元も具体的な死の経緯も何もかも不明である。デスマスクのモデルではなく、デスマスクそのものが多くの人を魅了し、想像力を刺激しているのだ。対象そのものよりも信仰心が信仰をドライブするようなその事態、身に覚えがありすぎる。

感想うまく書けないけど面白かったです

 以上、下手な要約がほとんどになってしまい、自分の言葉での感想が上手く綴れないのがもどかしいが、全編を読んでとにかく印象に残ったのは、ビジュアル的な要素の持つ訴求力の強さだ。そしてそれは西洋における肖像画や宗教画の伝統とも関係があるのではないかと思う。
 キリスト教世界では神が自分の子(イエス・キリスト)に具体的な人間の姿をとらせたために、神の似姿を絵に描くことができる。一方でユダヤ教やイスラム教では神を描くことができないために、その美術が装飾的な方向にむかう……という話を、別の本で読んだ覚えがある。
 西洋(≒キリスト教文化圏)においてデスマスクが長いあいだ廃れずに、さまざまな形で利用され続けてきたのは、こういった文化の中でビジュアル的な要素の強さをよく知っていたから……かもしれない。

 また、デスマスクそのものは死顔を型取りしたもの以上の何物でもなく、モデルが死人である以上は当人が何かを語ることは永遠にない。しかし、語られなければ語られないほど、観る者は過剰な物語をそこに読み込もうとする。その逆説は第7章の観相学や骨相学、第8章の「名もなきセーヌの娘」についての記述にもよく表れている。
 私はその「読み込む営み」に興味がある。その対象はデスマスクだけではなく、日々の出来事やよく知らない人物、難解な小説だったりすることもあるだろう。そういった「読み込み」の多様な形や歴史、その変遷とか傾向といったものを網羅したり比較したりしてる本があったらいいなあ。

余談

 第7章における見世物としての蝋人形についての記述で、それが大理石やブロンズではなく、ほかでもない蝋人形であることが、見る人とのあいだの心理的な距離感を解消し、想像力を駆り立てる、という部分があった。
 その心理的距離感の問題については、谷川渥『肉体の迷宮』の中の人形論の部分(主に第4章「人形と彫刻」)で、より細かく触れられている。さまざまな要素が挙げられており、また西洋と日本の人形観の違いにも依存するのだろうが、何にしてもキモは触感あるいは可触性といったところのようだ。

 あとこれは積読中なので評価は後回しなのだが、エドワード・ケアリーの『おちび』という小説が、タッソーの生涯を描いているようだ。大著なので紹介できるまで時間がかかりそうだけど、早く読みたい!

noteを始めて一年経ちます

 いつも読んでくださっているみなさま、(いらしたら)ありがとうございます。三日坊主で終わらなくてよかった。読んだり書いたりのリハビリとして、また即興的に文章を書いていく訓練にはなったかなと思います。
 とはいえちょっとノルマ的な意識になってきちゃってキツさが出てきたので、今後はもう少しゆるく、本以外の話題も取り入れながら、気ままに続けていけたらと思います。どうぞよろしく。

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