プラカード持ってデモ行進するようなコラムたち
昨日、少し変な三人で2時間くらい書くってことについて話をしていて気がついたことを一晩寝かせて(寝てないのだけど)
やっぱり面白いことだと思ったので書き留めておく。
彼女は文章を書くのが好きだという。
でも、言いたいことや書きたいことがあるわけではない、という。
でも書く。
彼女の書く文章の不思議さがとても心地よく面白く下らなく、どーしてそうなるのか?が気になって色々聞いてみてわかったことと、でもやっぱりわからないことがあった。
みんな、自分の考えを言葉に!とか、相手に簡潔に正確に伝えるために!とか、そんな風に言葉を書いてないだろうか?言葉の効率化というか、
確かにそんなことも重要だと思うが、そればかりでは息苦しい。
小津安二郎の東京物語という映画を思い出した。あの映画の中では、何も起こらない。というと言い過ぎだが、とかく映画に起きがちなコトが起こらない。ハラハラドキドキから一番遠くにいる映画。東京に出てきたおじいちゃんとおばあちゃんがアタフタしてる。その脚本は「老夫婦、部屋で何かしている。」みたいなので始まる。
いやいや、役者への指示のための脚本で、「何か」って、そこ、書いてないんかい!
でも、それでいいのだと小津安二郎は。何かしてるのが具体的に描きたいのではないのだから。
ともすれば言葉にすると伝わると人は思う。思ってしまう。そして言葉にするとそこで固まってしまう。
ふっわっとした感情だけをそのまま書き留められないのか?
そんな風に思えた。
と書いてるそばから多分間違っていないけど全部ではないと言われそうだ。なぜなら輪郭のない感情を掬おうとしてるのだから
で、巷に溢れる文章講座に、そんなふんわりとした感情を書き留めるための手段なんて書いてない。
けど、そんな文章があってはいけないわけではない。
映画でもう一つ思い出した。宮崎駿が、ハウルの動く城だったか?で
インタビューを受けている時、「この映画のテーマを一言で言うなら」
と言われて、明らかにムッとして
「そんなねぇ、映画はプラカード持って言いたいこと言うデモじゃないんだよ、いろんなことをそれぞれに感じ取ってもらうために、2時間も席に座ってもらってるんだよ」みたいなことを言っていた。
ニュースにコメンテーターが出るようになり、したり顔で立ち位置みたいなこと明らかにして一言物申す、みたいな、
世の中の文章がみんな天声人語ばっかりみたいに思えてきた。
隣でウンコウンコチンコチンコ歌ってる6歳児に救われる。
言葉が伝わると過信している
言葉の先には意味がある
ほんとうにそうか?
もっと、くだらなくてトイレの落書きみたいなそんな意味のない言葉が、もっとあふれていたら世界はどうなるのだろう?
わかってもらえただろうか?
共感してくれる人がいるとしたら、
いやいや、今回に限って言う。
私も言いたいことがあったような、ないような。
もし共感してくれた人がいたら何に共感したのか?私が聞いてみたい。笑
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