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誠実であるには

人を推すにあたって、誠実であるにはどうしたらいいのだろう。

この文章では上記の問いを紐解いていく。例として私の応援している俳優さんのお名前を出しはするが、誰に対しても、これが私の基本方針であることには変わりないし、友人など「推し」以外にも当てはまるものである。

誠実な人だから、こちらも誠実でありたい

俳優の梅津瑞樹さんが好きだ。
穴に潜み始めた(彼のファンクラブは「梅津の潜む穴」という名称である)とき、彼を誠実に応援するにはどうしたらいいかを考えた。梅津さんの言葉に触れて、「この人を応援している、と公言するに恥ずかしくない人間でありたい」という思いが湧いたからだ。

お仕事に真摯に向き合われている梅津さんは、穴の民(ファン)に対しても丁寧な姿勢を示してくれている。
下に示すnoteに載せたInstagramの言葉にもそれは現れているし、もうひとつ紹介すると、次のようなものがある。

今日(昨日)は個人イベントの件、沢山反応してくださり、ありがとうございました。

ああしたイベントがないといつも応援してくださる方々に直接お礼をする機会も中々ありませんし、何より皆の存在を実体として、人と人のやりとりだということを強く認識したい(またしてもらいたい)と思っていたところ、ようやくこの度、開催する運びとなりました。
僕も勿論人間なので、応援してくれる誰か、ではなく、あなたという存在とちゃんと会いたい。

梅津瑞樹/Instagram

「あなたという存在とちゃんと会いたい」と言ってくださる梅津さん。梅津さんは私達穴の民を、塊としてではなく、ひとりひとりの集まりであると扱ってくれている。
とても丁寧で、繊細で、誠実な向き合い方だと思う。多数の人間に対して、ひとりひとりに焦点を当ててくれている。

こんな誠実な人だからこそ、こちらも誠実でありたい、誠実であらねば、と思ったのだ。

そのままを受け取る

誠実であるために心がけるべきことは何か考えて、ひとつ浮かんだのが「そのままを受け取る」ことだった。
梅津さんが差し出してくれたものをそのまま受け取る。梅津さんがこちらに見せたいと思うその姿をそのまま見る。

私達が見る姿、表舞台に立っているその姿が、素のままであることはないだろう。ある程度、人に見せるために成形した姿であるはずだ。
それは表舞台に立つ人に限らず、私達が日常で関わる人達すべてに言えることだと思う。ここまでは見せる、ここからは見せない、と線引きをして、自分が見せたい姿を演出する。誰しもが、人に見せたい理想の姿を描いていると思う。

だから私達は、その向こう側を覗き込もうとしてはならない。例えば煙草を吸っているだとか、特定のパートナーがいるだとか、嫌いな共演者がいるだとか、仮にそうであるとして、梅津さんがそれを私達に隠したいと思っているなら、私達は探ってはいけない。
見せたくないと思っている以上、それは梅津さんの守られるべき、秘匿されるべき領域であるし、私達が踏み込んでいい場所ではない。

そして、誠実でありたいのならば、私達は梅津さんの言葉や行動を邪推しないように気をつけた方がいい。邪推や曲解は、誠実に向き合うことと離れた位置にある。ご本人が意図した形でそのまま受け取れるように、しっかりと理解をする必要があるだろう。
邪推しない、曲解しない、覗き込まない。

フラットに見る

「そのままを受け取る」と近いところに位置する。これは、梅津さんの言葉や行動、演技、表現したものをまっすぐに見て評価する、ということである。「好きな人だから」という理由で、思考を放棄したまま、すべてを良いものであると判断しない。

冷静に、彼を好きだという気持ちから少し距離を取った状態で、彼のつくりだすものを見つめる。そのうえで心を動かされたいし、仮に好ましいと思えなくても、それを歪めずに受け取る。
「彼が好きだから」と思考停止して、すべてに花丸を押すことは、誠実な態度ではないと思う。

梅津さんの生み出すすべてを好きだと思えなくてもいい、と距離をある程度取る事で、誠実に、湿度が高くなりすぎずに応援することができるだろう。

全肯定・神格化しない

梅津さんのすべてを手放しで肯定することは、私が(勝手に)理想とする「梅津瑞樹」の像を好きでいるだけだ。それは梅津さんのそのままではなく、梅津さんを真っ直ぐに見ていないことになるだろう。「フラットに見る」と重なる部分がある。彼が差し出してくれる「梅津瑞樹」をそのまま、真っ直ぐ正面から見ること。

また、どれだけ素敵な人でも、間違えることはある。こういうことを考えるのは大変失礼であるが、もし、もし彼が一般に良くないとされることをしてしまったとき、それの重大さに関わらず、「彼が正しい」と手放しで擁護することはよくないと思う。

間違えたのなら静かに行動を見守り、必要な時には愛と尊重を持って、冷静に穏やかに諌める(立場を弁える必要はあるので、直接伝えることはしないだろうが)。しかし、彼を好きな者として、応援している者として、意思は汲みたい。

本当に「そのまま」か

最初に「そのままを受け取る」と綴った。しかし、ここでひとつの問いが浮かぶ。私が「そのまま」だと思ったそれは、果たして本当に「そのまま」であるのだろうか?

私達はひとりひとり違う人間であり、私も、あなたも、梅津さんも異なる感性を持った人間である。仮に同じ物語を読んだとして、まったく同じところでまったく同じように心を動かされるとは限らない。

梅津さんと私では、「当たり前」が異なる。そもそも年齢も生まれ育った地も違うし、仮にそういった諸条件が同じだったとしても、私は梅津さんの持つ感性を手に入れることはできない。

「そのまま見たい」と思っても、ご本人の意図しない形で演技や言葉を受け取ってしまっている可能性はある。親しい友人であれば言葉を交わし、擦り合わせることはできるけれど、それが可能な距離にいる方ではない。

きっと、「そのまま」は得られないであろう。では、誠実も何もあったもんじゃない、となってしまうのか。私はそうではない、と思う。まずは「そのままを受け取りたい」という意思が大事なのだ。

問いが宙ぶらりんになったまま、まとめに入ろう。「解なし」ではないから、安心してほしい。

プリズム

いろいろと考えを展開してきた。梅津さんに誠実に向き合うには、どうしたらいいのか。人に対して誠実であるとはどういうことなのか。
一応のまとめとして、私はプリズムの考え方をここに示そうと思う。

私は、私の心をプリズムのようなものだと思っている。梅津さんが差し出してくれた光が私の心、プリズムを通って、どのような色を映し出すのか。映し出された色は、私の感想である。

梅津さんの白い光を受け取って、私が持つ感想は青色かもしれないし、赤色かもしれない。梅津さんの演技や言葉のどこにピントを合わせるかによって、どの角度でプリズムを当てるかによって、その色は変わる。

プリズムという考え方をしたときに、結局のところ、文字通り「そのまま」というのは不可能なのだと気づいた。プリズムを通った以上、光は屈折している。でも、誠実さを諦める必要はない。誠実であるために「そのまま見る」とは、綺麗なプリズムをかざすことだ。歪んだり、汚れたり曇ったりしているプリズムをかざさないこと。

綺麗なプリズムをかざして光を受け取り、そこから広がる色を楽しむ。光が屈折していることを忘れない。
これが私の、誠実な向き合い方だ。

梅津瑞樹さんが好きだ。誠実な人であると思う。だから私も、彼に対して誠実でありたい。私はちっぽけないちファンでしかないけれど、梅津さんを大切に思っているし、尊重したい。消費したくない。

梅津さんと私は「推し」と「ファン」ではあるけれど、そのまえに「人」と「人」であるのだ。先に引用した通り、梅津さんは私達ひとりひとりと、「人」と「人」の関係を結ぼうとしてくださっている。
だから私は、「推し」ではなく「応援している人」として向き合いたい。

何度でも言葉にして確かめたい。誠実であるには、どうしたらいいのか。私は、大切な人に対して誠実でありたい。誠実であるために、考え続けようと思う。そして、いつでも綺麗なプリズムをかざせるように、せっせと心を磨いておこう。

梅津瑞樹さんが好きだ。彼の光を、いつまでも誠実に受け取れますように。

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