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正解のない「慰め」を諦めたくない

他人が欲しがっているであろう言葉をかけてあげられる人が時々羨ましく感じる。

心が弱っている人、疲れてしまった人に対して、相手を労り優しく包み込んであげられるような言葉を掛けられるのは、一種の才能というか技術だと思うのだ。

私がそれをなかなか口にできない理由は2つある。


1つ目は単純に、相手がなんて言ったら気が楽になるかわからないから。

時と場合にもよるけど、相手の気が楽になる台詞が思い浮かばないことがある。

例えば、相手が仕事でミスをしてしまい、自暴自棄になったとしよう。

そんな時、一般的には「大丈夫だって、そのくらい誰でもよくやるし」って声を掛けてあげて、その後一緒にミスの対策を考えてあげたりするのかもしれない。

でも、逆の立場だったら。私がミスをした立場だったら。

何もよくわかってないやつに根拠もなく「大丈夫だって~!」なんて軽く言われたら、よっぽどの信頼を置いていたり内情を知る人でない限り「何も知らないくせに」と思ってしまう。

わかってる。私は性格が悪い。

でも、ミスをした不安や後悔、情けなさに目隠しをされて、相手の励ましの言葉が届かなくなってしまうのだ。

私が掛けた声で相手をより不快にさせたら?

本当に言って欲しい言葉がこれでないとしたら?

そう思うと適当に「大丈夫だ」とか言えなくなる。

だって大丈夫かどうか、私には判断ができない。


2つ目は、自分の言葉に責任を持てないから。

無理をしすぎている人に向かって「頑張りすぎないで」とか「もっと自分本位で生きていい」とか、そういう言葉をよく見かける。

事実、心身ともに負担を掛けすぎると人は簡単に壊れるし、割れた花瓶は元に戻ることはできない。

でも「頑張らなくていい」かというとそういうわけでもない。

そこの塩梅が曖昧なのだ。

人の能力や許容量には個人差がある。

どこまでが「頑張っている」ラインでどこからが「無理しすぎ」ラインなのかの判別を付けるのは難しい。

部活をサボりたいだけの奴がランニング中に「もう無理」と言ったら、きっとかけるべき言葉は「これ以上頑張らなくていいよ」ではなく「もうちょっと一緒に頑張ろう」であるだろう。

でも、生まれつき体が弱くこれ以上走ったら倒れて危険だという人が「もう無理」と言った場合には「これ以上頑張らなくていいよ」というのが正解になる。

それを見分けて声を掛けるのは難しいし、何より、前者をサボらせてしまった時の責任を私は取ってあげられない。

人は無理をしすぎるべきではないし、各自が好きなように生きる権利はあるものの、甘やかすだけで成長機会を奪ってしまったらその人の人生が今後豊かになったであろう可能性を潰してしまったことになる。

だからと言って、その人のラインがわからない以上、一概にその人を無理やり引っ張っていった結果相手が倒れてしまったとなったら、その責任も私には取れない。

この塩梅を見ながら声を掛けるというのが私にはどうしても難しいのだ。


SNSでは「無理をしない」「頑張りすぎない」「生きたいように生きる」ことが正義とされる風潮が強まってきた。

約10年前の過労死事件もあったし、本当に助けを求める人たちがなかなか声を上げづらい環境にあったことが明らかになったり、それこそSNSの普及でみんなが辛い思いをしていることが周知されるような環境になったからだと思う。

これ自体は良いことで、その言葉に救われる人は大勢いると思う。

私なんて単純だから、好きな人に「大丈夫だよ」と根拠もなく声を掛けてもらえるだけでかなり救われたりする。

だけど、何にでも考えなしに「頑張らないで」「無理しないで」と声を掛け続けると、当の本人は頑張り方を知らぬまま生きていくことになる。

私は、その人の頑張れる可能性を見殺しにするようなことはしたくない。

だから、なかなか相手に都合のいいであろう言葉を掛けてあげることができないのだ。

甘い言葉だけを吐いて相手を甘やかす役は私でない誰かがきっとやってくれる。

だからと言って、相手を無理に走らせることもしたくはない。

そうやって慎重に慎重に考えるうちに、私は相手へ掛ける言葉をなくしていくのである。

それでも、相手によって千差万別ある一種の「正解」に近い形を提供できるよう、相手をよく観察して対話をして、慎重な自分であり続けたいと私は思うのだ。

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