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信長 獅子の生 二

獅子の生

二.


寝所に忍んでくる者があった。

影。
そう呼ばれている乱破だ。名は、そこそこ通りはじめている。
「旦那、三河の方の首尾は上々です」
殿と呼ばないことも、許していた。銭も知行も与えてはいない。
奇特な乱破だった。


十六の夏のある夜、枕元にすっくと現れ、「旦那のそばに居ると楽しそうだ」と言った。
なぜか斬ろうとは思わなかった。信じることなど毛頭しなかったが、
うつけと呼ばれた己に誰かが乱破を差し向けるとも思えなかったからだ。
何より、影がまとった陰惨な気配を信長は気に入っていた。
それ以来、私的な間諜として、仕事をさせている。
探索から、放火、野荒し、時には暗殺まで。
影が望んだのは殿と呼ばなくて良いことと、好きな仕事だけを受けるということだった。


付き従っていた豪族達のおおよそ半数は、父の死後、離れていった。
年貢を納めようとはしなくなり、信長の呼び出しにも、応じなくなった。
腹は煮えたが、成敗する力が、ない。
かろうじて付き従っている者でさえ、いつ離反するとも知れないのだ。
狡猾に、大胆に立ち回り、そして耐え、力をつけるしかなかった。

三河の国境周辺の豪族達の動きが不穏だった。
結託して、今川方と誼を深くしている気配がある。
豪族達を互いに反目させるよう、影に命じた。
目的さえ与えれば、手段は自ら講じるところも、信長は気に入っている。
仕事は、いつも信長を満足させる出来だった。


次の仕事。

「政秀を」
信長はそれだけを伝えた。

平手政秀。尾張全域に根を張る平手一族の領袖にして家中一の実力者であり、
信長の後見人でもあった。
百人の兵を動かすのさえ、信長の意のままにはできなかった。
全てはこの老人が取り仕切っている。古い仕組みの権化でもあった。
もはや、邪魔でしかない。
影は、うまく消すだろう。

仕組みを、変えなければならない。
軍制も、民政も、商いも。
意味の無い複雑さが、事を難しくしていた。

直属の兵は多くなく、戦の時には、豪族達に合力を請わなくてはならなかった。
開戦前の軍議は長く、阿呆としか思えないものだった。
戦よりも軍議が長いことすらあったのだ。
千の烏合の衆よりも、百の精鋭が欲しかった。
手足のごとく迅速に動かせる兵だ。

そのために必要なのは銭で、
商いを広く興さねばならない。
商いのためには民の力が必要で、
今までのごとく、豪族達が、好き放題に民をいじめることを、止めさせなくてはならなかった。

考えなくてはならぬことが、山のごとくあった。

苦ではない。
父の存命中は、考えを実行に移すことさえできなかったのだ。

今は曲がりなりにも尾張下四郡の旗頭である。
今のところ、意のままにに動かせる部下と言えば影だけだった。

それでも、恐ろしくはない。少しずつ、家臣も掌握して行けるはずだ。
「政秀の次は、もっと骨のある仕事を頼みます。あんなじじいじゃ、勃つものも勃ちやしない。」
「おまえの仕事は、いつも良い、軽口ばかりはいつも気に入らぬな」
「旦那のお気に入りになりたきゃ、稚児にでもなります。これでも主持ちの乱破ではないつもりなので」
「もうよい。はよう去ね」

言い終わるより先に、影は消えていた。
忍んでくるのはいつも寝所で、姿を消すときには必ず蝋燭の灯とともに、
闇に溶けてしまうのだった。

明日には、長く守役で、後見人だった政秀も消えているはずだった。
暗殺など、好きな方法ではなかったが、
今は表立って争いを起こすのは下策だった。

今際のとき、政秀は影の軽口を聞くのだろうか、と思った。

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