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今日からソクラテスになろう

あなたは路面電車の運転手で時速100キロの猛スピードで走っている。行く手に5人の労働者がいることに気づいて電車を止めようとするが、ブレーキは利かない。あなたは絶望する。そのまま進んで5人の労働者に突っ込めば5人とも死んでしまうからだ。ここでは、それは確実なことだと仮定しよう。あなたは「何もできない」と諦めかける。が、そのとき、脇に逸れる線路=待避線があることに気づく。しかしそこにも働いている人が一人いる。ブレーキは利かないがハンドルは利くので、ハンドルを切って脇の線路に入れば、一人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる。

正しい行いはどちらか?あなたならどうしますか?

犠牲になる命を選べるか

哲学を学ぶとき必ずと言っていいほど扱う問題が、先のケースではないでしょうか。そしてほとんどの人が積極的でないにしても、一人の命を犠牲にして、五人を助ける方を選ぶでしょう。しかし、ここで哲学として議論されるのは、どちらを選ぶのかではありません。どうしてそれを選ぶのかです。

このケースの場合では、一人が死ぬのと五人が死ぬのとでは、どちらが選択されるかは明確のような気がします。そこにある原理はおそらくベンサムの「功利主義」でしょう。功利主義は物事の帰結に着目する。選んだその結果の世界に道徳性を求める。そして幸福を計算可能とし、今回のケースなら一人か五人と、失う可能性のある数の大きさから道徳的な方を選び出す。

しかし哲学は歩みを止めることができません。なぜなら次のケースで考えてみてください。

このケースなら選べるか?

今度は、あなたは移植医で生きるためには臓器移植がどうしても必要な五人の患者を抱えている。五人はそれぞれ、心臓、肺、腎臓、肝臓を必要としている。最後の一人はすい臓だ。そして、臓器ドナーはいない。あなたは五人の死を目前にしている。そのときあなたは、隣の部屋に健康診断を受けに来た一人の健康な男がいるのを思い出す。彼は昼寝をしている。そっと部屋に忍び込んで、五つの臓器を抜き取れば、その人は死ぬが、五人を助けられる。

ここでもう一度、あなたならどうしますか?

ほとんどの人は、それをしないと考えるのではないでしょうか。そうなれば、先のケースの「五人の犠牲より一人の犠牲」という論理が崩れてしまうことになります。つまり、ここでの道徳原理は「功利主義」とは相容れないことになります。

ここでは、カントの定言的な道徳原理が現れています。定言的とは、無条件にということであり、それを行った帰結がどうであっても、定言的に(無条件に)すべきではないということを意味します。

二つのケースに違いがあることに留意する必要はありますが、それでも助ける命を選ぶことには変わりはありません。それに対する私たちの選択から道徳原理の違いによる二つの視点が姿を現しました。それが

何をするのが正しくて道徳的か、ということは、行動の結果として生じる帰結で決まる。帰結主義的道徳原理→ベンサムの功利主義
帰結がどうであれ、ある種の絶対的な道徳的要請や義務や権利の中に道徳性を求める。定言的な道徳原理→カントのリベラリズム


哲学の本質

ハーバード大学で哲学の教鞭をとっている、マイケル・サンデル教授は次のように述べています。

哲学という学問は、私たちを私たちがすでに知っていることに直面させて私たちに教え、かつ動揺させる学問である。つまり、私たちがすでに知っていることを教えるということである。それは慣れ親しんで疑いを感じたこともないほどよく知っていると思っていたことを、見知らぬものに変えてしまうこともある。

つまり、哲学は新しい情報によってではなく、新しいものの見方によって、私たちの慣れ親しんだものから引き離すことで学ぶプロセスであるということです。

そして、それに対し誰かが述べる。

「長い間の偉人たちが議論して、解決できなかったことを私たちが議論しても無駄である。各人が自分の原理を持てばいいのであって、それ以上議論をする必要はない」

果たしてそうでしょうか?
確かに、長い間議論されてきたでしょう。しかし、むしろそれが繰り返されてきたというまさにその事実が、この問題の解決がたとえ不可能であっても、議論を続けることは避けられないことを示しているのではないか。

なぜ避けられないかというと、私たちは毎日、これらの疑問に答えを出しながら生きているから…

▼まとめた本


ハーバード白熱教室講義録 上
マイケル・サンデル NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム
小林 正弥・杉田 晶子[訳]

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