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何のために学ぶのか?あなたはどう答える?

僕は、塾講師をしています。大学生活の多くの時間を塾講師としてのアルバイトに費やしています。そんなある日、ある一人の生徒(男子高校生A君)が、僕にこんなことを言ってきました。

「先生は、何のために学校に行くと思う?」

僕は哲学が好きで、生徒に哲学的な話をすることが多いので、それもあってか、このような問いを持つことになったのだろうと思います。このブログでは、この問いに対する僕の視点をシェアできればと思います。

人は今日学んでも明日には忘れる。だから明日の僕のために今日の知を残そうと思う…

問いに隠された「新たな問い」

「何のために学校に行くのか?」A君自身がこの問いに至った経緯は、個人情報などから、ここでは伏せることにしますが、それを聞くことで分かったのは、この問いの中には「新たな問い」が隠されていることがわかりました。

それは

人間は何のために学ぶのか?

誰もがこの問いに直面したことがあると思います。簡単な例でいえば、学校で小学生が「この教科、将来使う?」と言って勉強しないのは、想像に難くないシチュエーションですよね。
きっと「学校に行く」=「何かを学ぶ」ことであるはずで、初めの問いからは、この「新たな問い」が見出せそうです。

ある問いに対して、すぐに答えることも当然できるかもしれませんが、一方、ある問いを構成しているのは、また違うある問いであることを認識することや、問いを細分化することで見えてくるものがあると、ここでは学べそうです。

4種類の役に立つ

一般論として学ぶことには、「役に立つ」という考えが内包しているのではないでしょうか。だから、「何のため」という言葉が問いの中にあると推測できます。それは至極当然のことかもしれません。

それに対し、教育社会学の私のゼミの教授はこのように述べていました。

役に立つは、直接、間接、短期、長期の4種類ある。

個人的にはとても好きな言葉です。直接/短期的なものしか見ていないことは、人間としてよくあることですよね。例えば、やりたくないけどやらされていたことが、長期的に見れば、もしくは間接的にしっかり自分の利益になっていたことはたくさんあるでしょう。

ただ僕はこれだけでない「別の視点」があると思っています。

学ぶことは「果実」か「花」か?

先の話では、「何のため」という視点からの問いへのアプローチでしたが、その視点でいる限り、“真の意味”は見出せないと僕は思っています。
「何のため」など無限大に可能性がありませんか。大人になった時、使えるようになるかもしれないし、ひょっとしたら忘れているかもしれない。いずれにせよ、その視点は「学びを果実」としてしか考えているに過ぎません。

果実ということは結果に依存します。コツコツ努力して、それがやがて将来に身を結んだ時に価値があると認識できる。果たしてそれで良いでしょうか。
なら途中で人生が終わった人の場合はどうなるでしょうか?その人にとって学びとは何だったのでしょうか。

つまり、このように学びを手段として据えている限り、それを活用できた時にのみ価値があることになってしまう。これだけで話を終わらすにはあまりに暴論すぎると思います。

僕が、高校3 年生の時の現代文の授業で学んだ丸山真男さんの〈「である」ことと「する」こと〉という作品の中には、アンドレ・シーグフリードの言葉を引用しつつ、下記のようなことが述べられています。

「教養においては、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚を持つこと、これが問題なのだ。」

そして、その続きに書かれているのが、

芸術や教養は「果実より花である」

つまり、学ぶことは芸術と同じで、それをすること、それ自体に価値があるというわけです。それをした結果どうなるかという「果実」ではなく、それ自体として「花」である。価値があると。

「何のために英語を学ぶの?」
「何のために大学に行くの?」
「何のために…」

と考えて、足が止まりそうになった時、それをした先の結果がどうであっても、それ自体に価値があると考えることが私たちの背中を押してくれるかもしれませんね。

三年間、塾講師を続けてきましたが、生徒の学びにはいつも驚かされています。何気ない生徒の一言や問いが、深い学びに繋がっていることが多々あります。きっと、一番勉強になっているのは、教えている私たちの方なのだと思います。これからも日々学びをくれる生徒に敬意を表し、対等に学習者として邁進していきたいと気づかされました。


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