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最近の気付き(「書いて伝える=当たり前」じゃない/怒りも大切なコミュニケーション)

私は書くことが好きだ。中学生の頃からブログやHPを作って発信をし続けていたから、「書くこと=当たり前」「誰かにわかりやすい文章で伝えること=当たり前」だと思っていた。その上、文学部を卒業しているので卒論やレポートでわかりやすい文章をたくさん書かされていた。そしてそれが他人にもできることだと信じてやまなかった。

それが全員に言えることでないと気づいたのが、先月。私が同僚に怒った日のこと。仕事で誰かに怒るのは初めてだった。(後日、別の同僚と話したのだけども「あのときのもえさんは凄く怖かった」らしい…申し訳ない気持ちでいっぱいだった)

なんで同僚に怒ったのかというと、それは同僚からもらった指示書が全くわからなかったからで。同僚の指示書を読んだ私は、「単語しか書いていないけれども、これは何をして欲しいんだろう。指示書って、他人が読んでもわかりやすくないとダメじゃない?」と思った。その旨同僚にも伝えた(怒った)。

「文章で伝える」が当たり前でない人もたくさんいる

後日、その日のことを振り返った。「文章でわかりやすく伝えるスキルが、働く身として最低限必要」という考え方が自分の中で息をするように当たり前だと思っていたことに気づいた。でも、同僚の中ではそれが当たり前でないこともわかった。と同時に、私は「文章でわかりやすく他人に伝えること、これは当たり前なのかな?」と少し自分を疑ってみた。

そのように疑ってみると、同僚の良さがだんだんわかってきた。私が同僚に怒った日、あのあと、上司を含めて指示書の内容を改めて同僚が口頭で説明してくれた。同僚の説明はとてもわかりやすく、簡潔で、さすが頭がいい人の話し方だと思った。その一方で、私は書くことが得意でも話すことは苦手だから、「お互いに足りないところを補い合えばいいんじゃ?」という結論に至った。

怒ることで気づくこともある。「怒り=悪」ではない。

同僚に怒ったことで気づいたのは、自分の当たり前の感覚が誰かにとっては当たり前じゃないとわかったこと。そして、今まで怒られることがとても怖かったのだけども、それは自分と相手の価値観が違うので合って、自分の人格を否定されているわけではない、ということ。自分が怒る立場になって初めて気づいたことだった。(怒り方については、ちょっとずつ怒りを小出しにできるようになりたいな)

あとは、人は怒っているとき、どうしても相手にないものばかり見てしまうということ。もし怒ってしまったたあとは自分自身で深呼吸して、自分にないけども相手にはあるものを見つけようと思った。怒りは使いようによっては、自分と相手を知るためのツールになると気づいた。

世間では「怒らないこと」なんていうタイトルの本がベストセラーになったり、アンガーマネジメントの講座もあったり、名前だけが先走りして「(あらゆる)怒りはよくない」といった風潮が生み出されてる気がする。パワハラやモラハラといった理不尽な怒りへの「怒り=悪」といった考え方はどんどん減るべきだと、私も思う。でも、価値観のぶつかり合いによって生じる、お互いが必要な関係だと知るための怒りだって必要だと思っている。むしろその怒りはコミュニケーションをより円滑にさせるものになると思う。

自分の価値観を知った上で、喜怒哀楽のポイントを知って、「ここぞ!」という時に怒りを適切な形で出すこと、これってとても大切なことなんじゃないかな。怒るのが上手い人になりたい。

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