いつかの少年と少女が行く場所
僕は小学生だったころ、横断歩道を渡りながらその白線を数えていた。
その行為に特段意味はなかったけど、カウントしながらステップを踏むことが気持ちよかった。それはいつしか僕のルールになっていて、公園の敷石でも街道のタイル画でも、歩きながら数えられるものは何でも数えた。
1、2、3。
1、2、3。
思えばあのころは好奇心に満ちていた。空の色や雨の味、花の蜜や虫の声。色々なものを目の当たりにしては一喜一憂していた。
小学二年生のとき父親の転勤で引っ越した。そこそこの田舎町で暮らしはじめ、僕はふと、遠くに見える山々が実在するのか気になった。
お月さまが日常的なものでありながら触れられないように、遠方の山々もまだ幼い僕にとっては非現実的だった。そしてとある週末、僕は姉を巻き込んで山の麓まで行ってみることを決めた。それはさながらアポロ11号に乗り込む宇宙飛行士の気持ちだった。
その場所にはまだ見ぬ何かが待ち受けているかもしれない。特別な誰かが僕を出迎えてくれるかもしれない。
仮に何もなかったとして、それはそれで別に構わなかった。月面のレゴリスを持ち帰る宇宙飛行士のように、僕だって何かを手土産にできるはずだ。小走りに進んでは振り返り、のんびりと歩く姉を急かした。
もちろん数えられるものを探してはステップを踏んでいた。この冒険の終着点に思いを馳せながら、陽気でリズミカルに。
ところが山々は一向に近付く気配がなかった。歩いても歩いても単なる景色のまま、手の届く存在にはなってくれない。
視界にはハッキリと映っているのに。すぐにだって辿り着けそうなのに。やはり「あいつら」は、リアルなようでリアルじゃない。
やがて日は沈み、僕と姉は引き返さざるを得なかった。
いつしかアポロ計画のような情熱は消え去り、横断歩道の白線を数えることもなくなっていた。
僕はそのまま二十歳を過ぎて、その世代にちょっとありがちな根拠なき万能感を手にした。事情も知らず収入や学歴だけで人を評価したり、テレビや漫画から仕入れた正義感を振りかざしたり、宇宙の真理を語るかのように屁理屈ばかりこねていた。
やがて労働とか恋愛とか常識とか色んなものが押し寄せて、代わりに夢とか理想とかそういったものは霞んでいった。僕はお世辞にも器用とは言えない。現実と対峙するだけで精一杯だった。というのも言い訳で、僕はシンプルに怠惰で自堕落だった。
それでもいつか大きいことを成し遂げる。…なんて、どこかで自分に期待なんかもしたりして。
ステップを踏む足は絡まって止まり、山の麓は遠く、その情景は非現実的なまま変わらなかった。
思えば、この世界に生きる誰もがステップを踏んでいるのではないか。今はそうでなくとも、かつては何かを夢見て進んでいたのではないか。
まだ見ぬその場所に思いをめぐらせ、ああではないか、こうではないかと妄想しながら。
そりが合わない上司のせいで胃に穴が開いてしまった新社会人も。フランフランでパステルカラーのクッションを買っている女子大生も。
他人から蔑まれる落伍者も。醜態を晒しては落ち込む依存者も。罪を犯してしまった前科者も。不遜な態度を取り続けるアイツも。
知られざる場所や、知られざる過去で、ステップを踏んでいるのではないか。
かつては誰もが少年であり少女なのだから。
あのころ思い描いていた大人とは程遠い今の自分。今になって改めて確かめてみたいと思っている。
あの山の麓に何があるのか。
もう一度進んでみようと思う。
好奇心が原動力だったあのころと同じように、妄想にときめきながら、なるべく陽気でリズミカルに。
自分をコントロールするのは簡単ではないし、自我をむき出しに足を引っ張ってくる人もいる。それでも歩みは止めずにおこう。
かつての僕と笑顔で向き合おう。そして小学生だったあのころと同じように、歩みを数えながらもう一度ステップを踏んでみよう。
一度は行きたいあの場所に辿り着くため。
1、2、3…
1、2、3…
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