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2021/03/27:「シリアで猫を救う」を読む

シリアの内戦の話を「バナの戦争」で読んだのが2018年。バナは無事アレッポを脱出したのだが、シリアの内戦はその後も収まる気配はなく、寧ろ国際政治からの孤立度は深まっている気がする。そしてその中心地にあるアレッポの事態も引き続き壮絶という言葉が当てはまる状況であるようだ。

シリアの内戦は2012年7月に始まっているそうで、かれこれ9年間も続いている。最悪な状態がこれほど長期に渡って続き、国際社会として具体的な解決の糸口が見いだせないというのは一体どうした訳なのか。今どんどん事態が悪化しているミャンマーについても同じことが言えるのだが、無力さの下で犠牲になるのはいつも市井の一般人なのだ。

シリアの国としての歴史は意外に浅く、1946年にイギリス、フランスの植民地から独立して国家となった国でした。その後社会主義路線のバアス党が政権を握り、1970年にはバアス党による軍事クーデターが起こされ、ハフェズ・アサドによる独裁政権へと移行した。


アサドは秘密警察を使って相当冷酷無比な所業を重ねてシリアを独裁していた模様だ。なかでも1982年に発生したハマーの内戦鎮圧では1万から4万人と数も特定できていない大勢の市民が犠牲になったという。大統領が自分の弟が率いる軍に命令を出し、治安と称して近代兵器で自国の市民に攻撃を加えていたということの意味を理解するのは難しいと思う。2000年6月に心臓麻痺でアサドが死ぬと息子のバッシャール・ハーフィズ・アル=アサドが政権を引き継いだ。バッシャールはもともと眼科医で政治には遠い人物と考えられていたが兄が交通事故死するなどの事情から後継者として政治の道についた人物だった。しかしこのバッシャールは父親以上に血も涙もない男だったのだ。

2010年にチェニジアで起こったデモを発端にエジプト、リビアなどへと中東で広がった大規模な反政府デモは「アラブの春」と呼ばれた。しかし、これはイメージ、期待されていたような春ではなく寧ろ過酷な国家弾圧を呼び起こすものでもあったようだ。

本書の語り手アルジャリールはシリア、アレッポで1975年に生まれた電気技師の男性だ。独学で配線などの技術を学び子供の頃から働いてお店を持ち、妻も子供もおり忙しく働く男であった。彼同様アレッポに暮らす多くの人々はこの「アラブの春」がシリア、アレッポに近づいてくる気配に警戒感を強めていたらしい。なぜならバッシャールの残虐さを彼らは肌で感じていたからだ。反政府活動のデモが起これば血が流れる事態となりバッシャールに譲歩の余地はないことを知っていたからだ。

しかし、戦争を知らない、世間を知らない学生たちは他国で進む事態をみて蜂起した。懸念していた通りアレッポに対する攻撃は文字通り容赦のないものとなっていった。当時デモ活動をしていた学生たちは平和維持軍や国連、メディアの力によって自分たちが暴力に晒されていたとしても最終的には救済されると思っていたらしい。しかし現実には手を差し伸べられることはなかった。バッシャールら独裁政権側からすれば国際社会から非難はされてもそれ以上具体的な行動が起こらないことがわかった以上、躊躇する必要はなくなったのかもしれない。結果的にアレッポは反政府勢力側からも政権側からも、そして略奪目的で闇に潜む犯罪者集団からも攻撃目標となっていく。

店を続けられなくなった彼は自分の車を救急車として使い爆撃などが起こった現場に急行するとけが人などを病院に搬送するボランティアを始める。もともと父親が消防士で自分も消防士になりたかったということがあったようだが、危険を顧みず人助けをすることを内戦状態のアレッポの市街地でやるというのは「夢」ですませされる話ではないだろう。

動くものであればだれでも撃ってくる狙撃手や同じ場所へ時間をおいて二度爆撃をしてくる戦闘機の存在をかいくぐって現場に踏み込んでいく勇気はただならぬものがあると思う。それを毎日の仕事として彼は働き続けていくのだ。

そんなアルジャリールの目に留まったのは行き場を失った猫の存在であった。飼い主が捨てていった猫たちはケガをしたり腹を空かせたりした状態で廃墟となった街なかを彷徨っていた。モハンマドはそんな猫を連れ帰っては治療し餌をやって暮らす場所を用意してあげるのだった。ある日、そんなアルジャリールの活動を目にとめた海外メディアの報道により彼の存在が知るところとなり、支援の輪が広がっていく。彼のもとには猫の餌だけではなく、その地域に暮らす逃げ遅れた人びとの暮らしを支える資金と支援物資までもが届き始める。それがまた、書くとネタバレになるので書きませんがこの本を手にしたときに想定した「本の内容」というか「着地点」のようなものがあった訳ですが、次々とその予想・予測をことごとく覆してくる本でした。

一方、27日ミャンマーでは度重なるデモと鎮圧部隊の衝突が激化し一日で114人が死亡する事態となったと報じられています。当初は報道関係者が拉致・殺害されていたものが今や一般市民、小さな子供まで殺害されており最早無差別と言っても良い状況だと思います。
クーデターで政権を拉致した軍は直前の選挙に不正があったと主張しています。国際社会では避難の声が上がっていますが、ロシアと中国はミャンマー政府を擁護しているようで、外国からミャンマーの事態を打破していくようなことが進む可能性は低いと思われます。

アメリカや日本のような国であれはなおさらなのかもしれませんが、政府が偏見と独自の価値観を持った連中にハイジャックされても海外の国が解決に乗り出す、助けに来るということはあり得ないということなんでしょうね。

世の政治家たちはそれを見越して行動していると考えたほうが良さそうだなと。一端権力を握ってしまえば何をやっても責任を取らずにやりたい放題できるというのは安倍政権でまざまざと見せつけられたことですが、それに反省するどころか菅政権はそれを模範として踏襲しているとしか思えない。

トランプを支持する暴徒が議事堂に乱入したのも選挙に不正があったと言っていたっけ。集計器に不正なプログラムが埋め込まれていたとか。現在、このメーカーはフォックスニュースに根拠のない情報をまき散らしたことによる名誉棄損と損害陪乗で莫大な違約金を求める裁判が始まっているそうであります。トランプが当選した際にも不正は訴えられており、その時はロシアがフェイクニュースをアメリカ国内に垂れ流していたとかいうものだったように思います。日本だって例外ではない。せいぜい30%程度しかない投票率で選ばれた政治家たちが繰り広げているのは国民のためというよりも自分たちの利権を大きくするために儲かる話に集まった連中が手を結んでいるとしか思えない事態が繰り返されている。

こうしてみると世の中は政治信条や価値観で割れているように見えるけれども、現実には利権を守るものとそれを奪い返そうとしているものの間の抗争に巻き込まれ命や財産を奪い続けられているというのが実情であり、それは正にナオミ・クラインが述べていた「ショック・ドクトリン」に他ならないと思う次第です。シリアやミャンマーで起こっている事態を遠い国の出来事だとか対岸の火事だとか思っている余裕は実はないというのが僕のこの本に対する感想です。油断しているといつ僕らがこんな日に暮らすことになってもおかしくない。



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