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祖国からゴールテープを切るまで

雑観です。

彼らが長い道のりを走ってきたことを知りました。
スポーツの祭典には「国境を越える」という意味が2種類あるということも。

文学、特に明治時代の文学研究していた頃、ナショナリズムとヒューマニズムという言葉が入れ替わり立ち替わり、二項対立するように私の目の前に登場していました。研究対象は、恋愛小説であっても決して恋愛100%ではない100%にならない開国時代の書物。それはもう化石時代ほど昔に感じる古い感覚なのですが、それが何故か今朝、マラソンのゴール直前でみた「不思議な手招き」の意味を知ることで、よみがえってきたのです。

不思議な手招きとは、
異なるスポーツウエアなのに
ゴール直前の競っているシーンで
2位の選手が3位の選手を
手招きしている姿。

その姿を目にとめた観客は少なくなかったようです。

このとき飛び出したクエスチョンマークは、異国の多彩なローカルルールがオンパレードの、オリンピックの一コマとして流れて消えました。ところが、今朝、webニュースに事の経緯が解説してあって、そのお陰で、他人事になっていたジェスチャーの真意を自分の事として考えるようになり、感動をシェアさせてもらい、目の奥から水が絞り出てきました。同じ祖国で知己の難民選手どうしだったのかと。


それで、思いついたことをメモ的に書いておこうと思っています。

聖火リレーの最終担当に性別と出自のこだわりを見せた政治的感覚が記事にあがったのも、時代の象徴ということでしょうか。こだわりが当然ではなくなっているという意味で。

全てではないけれど、ゲームを見ていて国旗のマークや統一されたユニフォームがなければ、ぽっとつけたTVで放映されているオリンピックシーンが、どの国とどの国が対戦しているのかわからなくなる時がありました。どうも意識していなかったけれど、これまでは種目と外見の風貌により国籍をだいたい想像できたということでもありますね。網ネット前でガタイが大きくても、ドイツ人とロシア人は見分けられる感じです。

日本人の名前で世界タイトルを取っていた選手が、別の国籍所属で出場。大人びて見えていたけれどまだ10代だったと知りました。もっているカード(人的要素)が多様。

2つの金メダル。

家族へ編み編みする選手にキュン死(会場で犬のチョッキ製作)。

選ばれた体力と精神力のピークを1年ずらされた選手たち。

応援の声も空気感染しない競技場。

国籍はパスポート。

つながりが目に見えないものへ変化するのならば、国境やそれを取り巻く権威が果たしていた大きな役割を今度は何が担うのでしょう。

祖国を離れた人すべてがゴールテープを切れるわけではないのだから、その栄誉を讃える気持ちがある反面、何かしら覚悟を胸に刻むような朝でした。



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