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敵は味方ではないけれども 敵でもないんだと


「正しい」という言葉が、昔から好きになれない。
あまり自分に自信のない性格だからだとは思う。「正しい」という言葉を僕はあまり使わない。多分僕の中で正しいと思っている時、口にしているのは「僕はこう思います」という言葉だ。
もし回りくどくなっていいのであれば本当は、「今トピックに上がっているのは~のジャンルの話で、そこは~のためにある物なので、~という風にするのが一番適切だと思います」くらいまで言ってやりたいとすら思っている。あくまでその環境で求められてる中でのベストなものだよ、と言いたいわけだ。

新卒で金融の営業をしていた。まあまあ適正がなかったのだけど営業が数字で評価されるのも当然しょうがないとは思っていた。
それなりに年次が上がって後輩への意見を社内で求められた際、次の様に言った記憶がある。
「自分の中で絶対に正しいと思う意見があったとして、それを正しいと周りに聞いてもらえるためには数字が出来ていることが前提になってしまいます。『誰が言うか』は実はとても重要なので、強い思いがあるのであればそれを人に伝えられる様にまずは数字をやりましょう」

人格否定レベルでボロクソに詰められまくったあの環境は死ぬほど辛かったし今思い出しても頭がおかしいとは思うけど、数字で評価されること自体に別に不満はなかった。そのために雇用されているという仕組みには納得がいっていたからだ。(そして逆に数字をやってまで何かを伝えたいという思いがなくなったことに気づいて辞めた)
ただ、得てしてそれが人格否定になることが多かったのでそれが僕は死ぬほど嫌いだった。あくまで組織の中での話でしかなくて、そこで間違っていることがその人自身を否定する様なことはあり得ない、絶対にだ。

前置きが長くなってしまったのだけど、最近正しさについて考えることが2つあったのでまとめてみようと思う。



①インターネット上の正義マン達

今これを書く気になったのはお察しの通り世間が騒いでいる不倫報道によってであるが、これについては前から思うことがあるし、大分前にTwitterで見つけた以下のブログに僕は死ぬほど共感している。

本来は「正しさ」の対立軸は「別の正しさ」なのだ。それが理解できていない。

誰かが悪意をもって悪事をしているのなら、これほど単純なことはない。問題なのは、「正しさ」が暴走する状況なのだ。

ずぶ濡れで歩く小学生を見て思う。そこにはあの日の松井君がいた。そしてまた僕は何もできなかったのだ。全員が「正しさ」を行使したその末に、結果だけ「正しくない」状況があるのだ。

今のインターネットは、ある種、あの日の帰りの会のようだと思うことがある。SNSを取り巻く環境は「正しさ」が暴走しやすく、今日もどこかで誰かが「正しさ」を小脇に抱えて拳を振り上げている。

この文章に僕の言いたいことはほぼ全て書かれている。
妄信的で熱狂的な「正しさ」は許せないものを排他するし、僕はそうしたことは全て最終的に戦争に繋がりうるから嫌いだ。というより、怖い。

ただまあ、Twitterとかで炎上したものを全力で罵倒し叩いている人達とかを見て毎回ここまで深刻に思ってはいない。「自分よりダメなものを否定することで自分は何か上の人間なんだと思いたい人達」だと思っている。口が悪くて申し訳ないがめちゃくちゃ言う人達には「どんだけ日常不幸やねんかわいそう」とか思っちゃってる。ドブラック企業勤務なのかな・・・とかいっつも勝手に思ってるごめん。ていうかむしろそうであってくれ。自分が不幸でもないのにあんな知らない人のことボロクソ言ってたら理解できない。怖すぎる。

ちょっと怖いなって思ったのは、昨年あった吉本の事件の時だ。

芸人がやらかしていたと報道された。物凄い勢いで糾弾されていた。ボロクソに言われていた。まあやらかしたことは確かに重たいと思う。世間は芸人達に怒り狂っていた。
その後、ご存じの通り芸人達の会見があった。吉本という組織の問題が浮き彫りになる様な会見だった。ああいう会見が起きたということはいいことだと思う。
今度は、やたらと吉本という組織が叩かれだした。芸人にはもはや同情の声すら上がり始めていた。

いやいやいや、ちょっと待てよ。何を「判断」してんだよ。

だっておかしくない?誰が悪かったかとか何が問題かとか、なんで一般市民の集合体が判断してるの?みんながいいよって言ったら許されて、ダメだよって言った人が悪いの?何それ?神様ってみんなのことだったの?

こんな感想だった。というかそういうことが起きないために法律が整備されてるんでしょう、というのが僕の意見だ。
ただ、お金が絡む世界にはスポンサーというのが存在して、最終的にすべてのものはBtoCになっている以上大多数のCの声が無視できないのが現状だ。だからこそ集合体の声は厄介になってしまっている。
でもネットの大多数のCが現実世界のどれだけのCの声なんだよ、というのも甚だ懐疑的にみている。いずれにせよ判断するのは第三者じゃなくて当事者であるべきだ。それは絶対に間違いない。

今世間を騒がせてる不倫の件だってね、友達でも家族でもなんでもない人達がギャーギャーいうことじゃないでしょうよ。それが悪いことだとしても、他人が何かを決める様なことではないんだよ。嫌だなあ、ともやもやもやもや、って感じですね。でも杏好きなのでしんみりはしてます。


②誠実で正義感の強い人

これに関しては嫌いな人の話ではない。むしろ好きな人達の話だ。だから勝手に心配している話なのだ。
とても誠実で、不平等や理不尽が大嫌いな人がいる。「どうすれば平等か」をひたすらに考えていて、尊敬できる人だ。組み立てている意見はとても練られていて、関わる人みんなが理不尽にならないためには、という目線があるから信頼できる。
でもなんというか、たまに違和感を感じる時があって。その違和感についてなんだろうと考えていたんだけど、最近ようやくわかった。

他の正しさを認めないのだ。

同じことに関してでも、正しさは当たり前だが変わる。
例えば僕は酒飲みだがお酒が弱いので、今日これ以上のんだら明日二日酔いヤバいなって瞬間がある。でも飲むときの僕の中の正しさはこうだ。
「明日辛い時間の方が長かったとしても、今最高に楽しいから飲んじゃえ」
実際これで別に次の日辛くてもあんまり後悔していない。
でもきっと、大多数の正しさはこうだろう。
「今十分楽しいのに明日辛くなることをする必要はない。しかも飲んだらお金も更にかかるから明らかに損している。」
これは確かに正しい意見だ。別に反論する気は全くない。
でも、別に僕にとってはそれは正しくないだけなのだ。
正しさって結局、その人が何を大事にしてるか次第なのだ。
僕は楽しいと思っている瞬間がより最高になることが何より好きなのだ。刹那的なものが好きでしょうがないのだ。それは僕の性格から生まれる僕の中では全くもって合理的な意思決定なのだ。人からみて非合理的だったとしても。

自分にとって間違っていても、他人の正しさもある程度許容しよう。

僕が言いたいのはこれである。自分の中の正しさを誠実に考え抜いてる人ほど、自分の中で許容できない正しさを許さない気がしている。
そこが、僕の感じる違和感だ。他人の考え方を理解できないのは別にいい。理解なんて常にできるものじゃない。

理解できないこと=許せないことにならないでほしい。

不用意に人を傷つけているなら別だ。そうじゃないのなら、わからないまま許容するというスタンスを取ってほしいのだ。あなた以外はあなたじゃない。そのうえで僕たちは生きていかなきゃならないのだ。

何度も言うがそういう人は誠実だから僕は好きだ。だからこそ心配なのが、あまりに他を認めない考え方は、自分自身の行動も常に縛られてしまって、自分自身を追い込んでる気がしてならないのだ。「まぁいいじゃん」がないと、息が詰まってしまわないかと、それを勝手ながら心配しているのだ。


何かを正しいというまではまあいい。その先で、自分の中の「正しくないもの」を簡単に否定するのは凄く怖いことに思えて仕方がない。どんなに間違ったことでも例えば当事者が許すならその話は終わるべきだし、人によって正しさは変わる。

正しさは、状況によって常に変わる。絶対的なものは何一つない。

この不安定さを肝に銘じておかないと、なんだか大変なことになってしまいそうで僕は怖い。


チバユウスケも、同じ様なことを言っていた。


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