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【群像】Jさんは夏が好きだと言った。

しばらく気分の浮かない日が続いていました。

心の気まぐれ。または、体の調子だったのかもしれない。

それは夏の暑い日でもありました。

わたしは元々、夏が苦手です。湿度が高くて、暑くて。毎日「夏の終わり」を心の中で口ずさみながら過ごしているぐらいに。夏は既に終わったことにしたい。レクイエムを歌えば死んだことにならないだろうかと。夏はまだ始まったばかりだと言うのに。

その上で、今日はどうしてもJさんの話をしたい。

会社の休憩室のソファに座り、ぼんやりと外の公園を眺めていたわたしに、彼はいつもの通り「How are you?(調子はどう?)」と声をかけてきました。

Jさんはカナダ人。40歳になるとベテラン中のベテランになるぐらいの比較的若い(とはいっても、IT系で考えると平均年齢はやや高いかもしれない)社内においては、社歴の長いベテランの社員さん。社内にいるカナダ人はもれなくお喋りで、話し始めると止まらない。Jさんとは別のカナダ人について、彼はお喋りだよねと同僚に話して「カナダ人だからね」と返事をされて以来、カナダ人という人々はお喋りなのだと信じている。Jさんもその一人。その場に人がいれば息を吸って吐くように世間話を始める。でも、それは彼にとって「おはよう」と同じようなもの。色んな国の人と話してわかったけれど、そのスタイル自体はどうやら彼だけのものではなく、諸外国だと普通なようで、むしろ日本の挨拶だけですれ違うスタイルは稀なのかもしれないと最近は思います。

「調子はどう?」というそれも、いつもの挨拶でした。

特に彼のそんな行動は、Inclusionという概念に則っているものだと常々感じます。Inclusion、日本語にすると難しいけれど、仲間はずれにしない、自分(たち)の輪の中に人を迎え入れる、そんな概念のことです。彼はInclusionの技術において右に出るものがいないと思います。息を吸う用にこうやって話しかけて、会話の中身は迷惑なほど長かったり、重くなったりはしない。中身が全く無いかと言うとそうでもない。その具合がちょうど良く、まさしく「社交的な紳士」だなと思わされます。

英会話初心者のわたしにとっては、この手の世間話をエレガントに、軽やかにこなすことが憧れでもあります。しかし、この日に限っては本当に気が落ち込んでいて、ぽつりと「気分がふさぎ込んでいるんです」と返事をしました。

「夏だからかもしれないです。夏が好きじゃないんです。暑いし、じめじめしているし。」

そして、彼はとても優しいおじさまで、いつも何かと声をかけてくれる。だから、ついついわたしも零してしまったのです。

「Well,(そうだねぇ…)」

彼は「Well」という時に顎が上がる癖があります。気の利いた冗談を返そうとしてくれる時には、この時に少し笑ってたりする。しかし、この日は少し違って、優しいまなざしのまま遠くを見て、言いました。

「ぼくは夏が好きだよ。昼は暑いけど、夜に皆が楽しそうにしてるのを見るのが好きだから。」

それから、いつものひょうきんな感じではなく、本当に柔らかくて優しい表情で付け足してくれました。

「辛いなって思う時には大事なことがある。それは、どんなに辛くても、うまくいっていることはうまくいっているんだって、忘れないようにすること。」

嫌な気持ちになると、何もかもがだめになっているように見えるかもしれないけれど、そんなことはない。うまくいってることは、どんな時だってそのことに変わりはない。野原に咲いても、肥溜めに咲いても、タンポポはタンポポだ。そういうことは、頭でわかっていても、何処かでふっと見失ってしまう時もある。

彼が言ったのは、そんな、大事なことでした。

「本当にそうですね。Jさん、ありがとう、わたし少し夏が好きになりました。」

Jさんは良かった、と頷いて。

そしていつもの通り、こう言うのでした。

「夜、皆で飲みに行きたいなと思ったらいつでも言ってね。いつでも歓迎するから。食べたいもののリクエストと一緒にね。」

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