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会社の飲み会、行きますか? 行かないですか?

コロナ禍が明けて(一体何がどう明けたのかは分からないけれど)コロナの間に失われた文化、会社の飲み会、が戻ってきた。
そもそもコロナ前から「どうなのか?」という意見が多かった「会社の飲み会」なのだけど(なぜに業務時間外に強制的に参加しないといけないのか? 5,000円近く支払って上司の話をただ聞くことの意味は? 端的につまらない・・・・・・などなど)ついにうちの会社でも先日BBQが行われることになった。

コロナ前は積極的とは言えないまでも、なんでかんで参加してきたけれど今回は適当な理由を付けて断った。そしたら前日に上司から電話をいただいて「非常に遺憾である」とのお話をいただいた。
「遺憾」なのは上司の感想なのでそのまま不参加を決め込んだのだけど、やっぱりもやもやするものがあった。

そんなおり、今村夏子の「星の子」を読んでいたら、作中主人公が父の会社の運動会に家族で参加した、というくだりがあり、ああ、確かに昔の会社はそういうのがあったと思い、またもやもやとした。

果たして会社の飲み会とはなんなのか?
管理者からすると、これの参加率によって一般職員たちの団結力とか一体感の度合いがわかる。参加率が高ければ離職率も低いし、満足度も高い、その逆はそのまま逆であると。

これが一昔前の、終身雇用が生きていた時代であれば、小説にあったように文字通り会社はそこの社員たちの生きていく「ムラ」であり、社員はもとより、その家族も会社という「ムラ」の行事には参加するものだったのだ。

なので一体感を高める、というのももちろんだけど、「ムラ」の中で顔を売る、あいつは面白い、という風に思われることが結構重要だった。
「ういやつ」と上司に思われるのが出世の近道だった。そうすることで成果の上げやすい環境に抜擢してもらえる、そしてその「ういやつ」集団による出世レースが行われる。そしてその下にはまた「ういやつ」がいて・・・・・・と、そんなことが割とままあったわけだ。

そしてなにより、もちろん会社の偉い人もバカではないので、基本的に社員が「休みの日くらい好きにしたい」と思っているのは重々承知である。ただ「(なんとなく)参加しないとマズそうだから」「みんな参加しているし」という同調圧力にみんながしっかり負けてくれることが重要なわけだ。
世間のや自分の論理より、なにより組織の論理を優先してくれる集団を作るのが重要なのである。

じゃあ今回の参加者はというと、1/4だったとのこと。そうなると支社全体の飲み会というよりは個人的な飲み会の人数である。
組織どうこう、というレベルではない。

しかし、コロナ前のある期間、自分の会社でも飲み会が上手く機能していたことがある。ほとんどの人が当たり前のように参加して、それなりに楽しい時間を過ごしていたし、自分も楽しかった。
ただコロナ前に支店長に当たる人が移動してきて一気に雰囲気が変わって、そしてコロナ禍を迎えた。

あの頃はそんな七面倒くさいこともなく、ただ飲み会が楽しかった。
そして今回自分が参加しなかった理由の一番が「別に話したいと思える人がいない」ということに気付いてあ然とした。

それがコロナ禍でのコミュニケーションレスから来るものなのか、どうも分からない。

なんにせよ、行きたい人は行くし(例えそれが利益目的でも)、行きたくない人は行かない(例え不利益があったとしても)それでいいじゃないか、といえる社会が来て欲しい。

「わたし」は「わたし」「あなた」は「あなた」で別の人格なのだ。同じ組織にいるからといって人格の浸食が行われるのはよくない。

なにより人を集めたかったら人が集まるような人になればいい。

そうじゃないですか?

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