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大豆田とわ子と三人のオダギリジョー

「仮面ライダークウガ」と聞いてすぐピンときて、あの特撮作品の姿や物語のイメージが浮かぶのは、私や兄と同世代か、その親たちだろう。


ところで「大豆田とわ子と三人の元夫」が面白い。

松たか子演じる「大豆田とわ子」の元夫として松田龍平・東京03角田・岡田将生が登場する。

そもそもこの役者たちが各々に魅力的で、ただそこにいるのを画面越しに見てるだけで「何かを見てる」気分になって楽しい。この辺りは監督とか演出の妙もあるかもしれないけど、そんな色気があるというか。作中のセリフにもあったけど角田さんにも確かに色気があると思う。三人それぞれが面白い配役。

しかしやはり脚本の坂元裕二がどうもヘンタイ的で、そこが面白くて心惹かれるのだろうと思う。

ぱっと見ステレオタイプなキャラクターだったり、物語の展開上出てきたように見える人物にも、どこか「でも実際こういう人いるよね」感がある。写実的なのにデフォルメされてる、というような感じ。作者がキャラクターたちに向けた「そうだよね君はこういうときそうするキャラだよね」という生暖かい視線がチラチラ見えるような。

「花束みたいな恋をした」

という映画(私は見損ねた)の感想をみる限りでも、「こういう現代のいわゆるサブカル系」みたいな視線に対して、どういうスタンスを取るかで色んな意見がなされていたように思う。実際坂元裕二はとあるインスタアカウントを観察して、それを元に書いた架空の男性と女性それぞれの日記(かなりの分量)から「花束みたいな恋をした」の脚本を書いたとか。ヘンタイすぎる。

閑話休題:オダギリジョーの変身問題(本論)

大豆田の方だが、物語の折り返し地点で去ったキャラクターと入れかわるように登場したのがオダギリジョーだった。

圧倒的な存在感だし圧倒的な色気ですごい。ちょっと違和感があるくらい。

オダギリジョーってどの作品にいてもオダギリジョーな気がする。いつも「ゲスト出演」っぽい。どの物語の中にいても、そこから急にいなくなりそうな不安感が滲んでいて、今はこの物語の中にいるけど、ふらっと別の物語世界へ去っていきそうな感じがする。そういう意味で違和感を持った役者さんだと思う。

でもクウガの時は違ったんじゃないだろうか。逆にいうと、あの物語の中だけオダギリジョーは物語の一部として機能してしまっているというか。

一応説明しておくと「『仮面ライダークウガ』(かめんライダークウガ)は、2000年1月30日から2001年1月21日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜8:00 - 8:30(JST)に全49話が放映された、東映制作の特撮テレビドラマ作品。キャッチコピーは「A New Hero. A New Legend.」(新しい英雄、新しい伝説)」だそうだ。(ウィキペディアより)

内容的にはまあ、怪人を仮面ライダーがやっつけるというシンプルな勧善懲悪的な構造になっているんだけど、主人公の五代は底抜けに優しい人物で、相手が凶悪な怪人であっても殴ったり爆殺することに躊躇いや恐怖を感じている描写がある。加えてそういった感情を他人には見せまいと常に笑顔で周囲の人と接していて、笑顔の仮面を被った戦士、みたいなところもグッとくるお話でした。

ファンの間では有名な話だが、オダギリジョーはキャラクターがいきなり「変身!」と叫ぶような特撮作品が好きではなかったという。まあ、それは彼のクウガ以降の経歴を見れば想像できることでもある。

で、当時のオダギリジョーはおそらく無理してクウガの五代雄介を演じていたと思われるし、実際のちに共演者と対談していたときに、「当時は自分と五代に共通点を感じていたけど、今思えば自分の中の五代的な部分を必死に寄せ集めていたのだと思う」と言った旨の発言をしていた。

これが、他作品と違ってクウガのオダギリジョーが作品の中に馴染んでいるように見える理由だと思う。自分が役の方に寄っていくということをこのときはしていた。

それが良いとか悪いとかをここで論じるつもりはなくて、これは入れ子構造として、クウガの物語と重なる。

「戦う恐怖を隠して笑顔でいる五代」と「特撮嫌いを押し殺して五代になるオダギリジョー」という風に

ここまで話すとようやく大豆田の話に戻れるのだが、あの物語の中でオダギリジョー演じる小鳥遊はくっきりした二面性を持って現れる。「数学好きのふわふわした人」から眼鏡をかけて、まるで「変身」するがごとく別人のような「エリートビジネスマン」になる。

しかもどうやらビジネスマンとしての姿は社長に命じられるままに働いた結果らしい。つまり、そうあることを強いられて変身した一面と、本来の数学好きの姿が乖離してしまっているわけだ。

これ、やっぱり坂元裕二はクウガの話、オダギリジョーの変身問題の話をしているのではないかと思われるわけです。

さらに決定的なのが、大豆田の劇中で、小鳥遊が社長の娘の「好きな男性のタイプ」を教わったと大豆田に話すシーン。

「さわやかで青空が似合うような人」がタイプと言われたと小鳥遊は語り、「自分はそんな人じゃないですよね」と笑うのだ。なぜそんな話をしたのか?

クウガでは五代雄介の底抜けの明るさと優しさが青空にたとえられていたのだ。OPタイトルバックも青空だし、エンディング曲も「青空になる」という歌だし、五代の「大雨が降っていても雲の向こうにはいつでも青空が広がっている」と言うセリフが印象的だったし、最終回のタイトルも「空我(クウガ)」だった。

そして、自分を「青空のような人じゃない」と笑う小鳥遊とオダギリジョーはやはり重なって見える。

我というものが空(から)であるみたいに、人のために仮面を被って変身する人としてのオダギリジョー。

そもそもが役者という仕事自体が人の言うこと聞いて「変身」するものだろう。オダギリジョーが本当はやりたかった監督の仕事が、小鳥遊にとっての「数学」で、五代にとっての「自由な旅」なのかもしれない。

クウガで五代雄介は最後に戦いを終えると、そのまま旅に出てしまった。そしてクウガ以降、オダギリジョーはどの物語にも居付かない感じの役者になったし監督の仕事をした。

「大豆田とわ子と三人の元夫」のなかで小鳥遊ことオダギリジョーが、やはりいつの間にかまた別の物語へ去っていってしまったり、はたまた劇中で数学者になるのかどうかは分からない。

しかし、最新話での小鳥遊は眼鏡をかけた「変身状態」でありながらプライベートとしてとわ子と親密になったり、ビジネスマンモードを生み出した社長から解放されようとしており、その「変身前・変身後」の二元論から解き放たれようとしているようにも見えた。

青空のような人、隙のないビジネスマン、数学にわくわくする人。

坂元裕二が「三人のオダギリジョー」に向ける「生暖かい視線」は、この物語でオダギリジョーという人物をどんな結末に導いてくれるのだろう。




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