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だめだこりゃ! 映画や私

 物事の本質ってなんだろうという話。

 なんか前にテレビでAKIRAの映画の音響に、人間の聴覚では感じ取れない音を足すことでそれまでと異なる臨場感を演出するみたいな話を聞いた。

 もちろんそうすることでAKIRA自体の内容が変化するわけではない。物語の筋の流れや登場人物の描きこみは変わらないのに、映画の体験の質を高めるらしい…。そんなことってあるだろうか?

 映画の本質を物語内容だと考えるなら、聞こえない音を足すなんて無駄にも程があると感じられると思う。しかし、そう考える人は同様にして、IMAXの映画を普通の劇場のスクリーンのアスペクト比で見ても、内容が変わるわけでもあるまいし問題ないと言えるはずだ。

 それは違うでしょって直感的に思う。画面を切り取っちゃったら構図が崩れるし、見えたはずのものが見えないということも起こりうる。画面なんてデカけりゃデカい程いいんだから。とすると画面自体が、その映画の体験を決める要因の一つらしい。

 では映画の本質とは何なのか、という問いがここで起こる。これは映画の良し悪しを決めるのはどの要因かと言い換えて良いだろう。言い換えて良いのか? まあいいや。いいよね。

 たとえば脚本はどうだろう。いや、脚本の文章が映画を決定するならそれは映画である必要がない、小説で構わないではないか。映像はどうか、音響は…、と考えていくと、要は必要条件と十分条件みたいな話になります。いやそんな話したくないよ! 助けてくれ〜〜

 ともかく、普通の音響では切り捨てられてしまう超音波も人間の皮膚かなんかで感覚しているのであれば、映画というものの存在の一部足りうるんだろう。


 ときに、あなた、或いは私の本質とは何だろう。つまり私たちの良し悪しを決めるのは私たちを作るのどの要素だろう。万引きをしたら悪人? 万引きを見逃してやる店主は善人? 今東京から田舎に帰省する人間は石を投げられるべきか? 投げない君は善人だろうか?


 そういう問題じゃないっていう話。

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