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【掌編小説】サトゥルヌス

 仕事がようやく片付いたときには、職場は彼女ひとりだけになっていた。出社するべく、階段へさしかかると、そのすぐ下の踊り場で熊とも人間ともつかない大きな化け物が彼女の上司を鷲掴みにして、無我夢中で喰っていた。上司の方はピクリとも動かない。 

 すくんだままに、その様をじっと見ていた。左腕につけた時計。あの嫌みったらしい女上司に間違いなかった。 

「テメエのせいでこんな時間まで仕事をする羽目になって、どこで油を売っているかと思えば。」 

 口元が勝手にほくそ笑む。そうだ、アイツは棚から降ってきたぼた餅に頭をぶつけて死んだのだ。そう考えると、なお滑稽であった。 

 しかし、なんという姿だろう。肌は真っ黒で、見るに毛深い。身長は5mほどで、肩の筋肉が岩のように突き出ている。ふたつ足で立つソレはゴヤの「我が子を食らう食らうサトゥルヌス」そのものであった。 

 しかし、彼女からはこわいという感情がだんだん失せた。彼が味方であり、仲間であり、はたまた友とさえ感じた。ゼリーの蓋をはがしたときに溢れる水分を吸うように、こぼさぬよう血を吸っては肉を食うその様すらいとおしく見えた。「見てよ、自分の子どもが一生懸命に箸を使って食べるように可愛いでしょ」そう誰かに言ってやりたくなった。 

 そうしている間に、彼は服も時計もすべてを食い尽くす。今度はその大きな目をギョロっとこちらに向けて、ゆっくりと階段を登ってくる。「逃げなければ」。しかし、それは形式的に出した答えに過ぎなかった。彼女には逃げる気などさらさらなかった。「ずっとこんな機会をどこかで心待ちにしていたのかもしれない」そんな気持ちに胸を躍らせていた。

 今日は棚からぼた餅がふたつも降ってきた。そして、彼女はその巨体にやさしく身を預けた。静かな静かな夜であった。 

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