見出し画像

魚行きて水濁る

   例えば、繁華街の少し入り組んだところを歩いている。奥まった路地に二つ折りの黒い財布が落ちているのを見つけた。お金がない私は出来心でその財布を手に取る。まわりに人はいない。中身を見ると3万と2000円入っている。さてどうしよう。

   私はここで葛藤する。人間に罪悪感というストッパーがついているからだ。これのせいで大変動きづらい。ときに道徳的な、非常に曖昧なところでこれが出ると私は悔しい。だって人によってはそんなことつゆ知らず、生きている奴がいるからだ。ホラあんなところにも。罪悪感を感じずに過ごせたら、どれほどのびのび生きれることだろう。そう思って罪悪感をひとつずつ理屈で言い聞かせたりした。かくして私は落ちた財布から金を抜き取れる人間になるべくやってきた。

   がしかし、これが良くできていて、なんの巡り合わせか肝心の財布にただの一度も出会わない。あまりによくできて感心する。だから、ここになにか啓示的なものを感じずにはいられない。 

   それで改めて思う。そりゃズルい奴やワガママな奴は生きやすいだろうよ。ただ嫌な奴ってやっぱり嫌だ。そんなものは目指すものではない。私にはできない。できない方がいい。

  だけど魚の行きて水の濁ることをいちいち気にするような人間でもいたくない。私は一体どうしたいのだろう。だからもしこの財布を拾ったのなら……


   はっ……! 夢か。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?