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帰らない人たち

 振り返って、かつて居た場所での自分のことを覚えているだろうか。それを妙に大事にしたり、割り切って捨ててしまったり、どちらが正しい選択なのか。自分がどこにいるかも無意識に流れるように流れるままで私にもよくわからない。 

 最近、芸人のお笑いが私の頭のなかで一旦飽和に達したこともあって、全くそれまで縁がなかったアイドルのバラエティを見始めた(これ書くのすごい恥ずかしい)。しかし、アイドルはアイドルで独自のお笑いがあって、面白い。 

 しかし、こうしてアイドルをしっかり見る機会に出会うと随所に「わたしたち何にも染まってません」と言いたげな節を改めて感じる。そんなわけないだろうと私は思う。 

 ここからは偏見全開だが、そもそも芸能界で「純粋」を謳うからには、芸能界全体が純粋ではないということだ。世界が平和なときにわざわざ「世界平和」をかかげたりはしない。そんな場所にいれば朱に交われば赤くなる、時間の問題である。 

 私は、芸能界は良くも悪くも力を持て余した超人が一堂に会する場所だと思っている。「千と千尋」の湯屋のような化け物だらけのところに、さっきまで一般人だった千尋のようなアイドルがひとり迷い込む。千尋は幸い帰ることができたが、他の人たちはすっかりそこに染まってしまって帰る場所を忘れてしまっている。一度足を踏み入れたら帰ってこれない。それが良いか悪いかは別にして、ほとんどの人がおそらくそうなる。 

 例えが重複するが、不思議の国のアリスのようであり、浦島太郎の竜宮城のようである。毎日のしびれるような喜怒哀楽に、もう今までの場所では満ち足りなくなる。そうして帰ってこなくなる。ここに黒々とした趣を感じる。 

 書いていて思い出したが、「火の鳥〈乱世編〉」にも似たようなくだりがある。この話の主人公は弁慶。彼は集落で平和に暮らしていた。その集落に幼馴染の男勝りな女の子(名前忘れた)がいて、2人は両思いで、いずれ結婚するみたいな雰囲気だった。ところが、世は平家の天下で「美人連れてこい」みたいな命令が出て、幼馴染の女の子は平家のところに連れていかれる。それに憤慨した弁慶は「打倒平家」を掲げて、ご存じ弁慶として、義経の家来になり、その女の子を取り返すべく、平家を倒していく。そして、ようやく壇ノ浦の海を挟んだ船の上でその女の子と再開する。ところが、その女の子はもうすっかり平家の境遇に同情してしまっていて、平家とともに死ぬ。結局弁慶のもとには帰ってこない。 

 なんだこの話はと、小さい頃読んで頭を悩ませていたが、こんなことが身近にも確かにあるのだろう。なんか「檜垣」のようにこれは女性でないと成立しないような感じもするが、今のところは男のそうなるプロセスと、女のそうなるプロセスとでは違うようである。実際ほとんど変わらないとは思うが。 

 話を最初に戻す。かつていた場所に戻りたいか、もう戻りたくないか。ここには人間の人間臭い苦い部分が出ていて大変興味深い。私の場合、帰りたくなくなった人のほうが、見てて感じるところが多い。それは遠くのことばかりでなく、案外身近にあるからなのだろう。

 しかし、こう書くとアイドルのバラエティは「純粋」には見れないかもしれない。もう距離を置こうと思う。 

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