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日記と珈琲_7月の裏側

からだの8割が「珈琲と映画と本」で出来ている医学生です。7月の裏側、日記をもとに書いたエッセイです。


『岸辺露伴は動かない』という作品がある。ジョジョで有名な荒木飛呂彦の短編漫画集だ。この題名の「動かない」という言葉が示す意味について、ぼくは長らく考え続けてきた。「動かない」とは何を意味するのか。

題の由来は、「露伴が主人公ではなく、物語のナビゲーターである」ことを示唆しているとされている。しかし、ぼくは「動かない」という行為について、さらに思案を続けたい。

動けば、身体言語が発せられ、観察者の文脈に組み込まれた「意味」が変化する。対して、動かない場合は、発せられる情報は限定的で、観察者の解釈も単一的になる。それでも、動かない状態でも、観察者の文脈に取り込まれ続けることは避けられない。

ぼくがここで注目したいのは、他者からの観察ではなく、自己が自己の内部に向けた視点だ。〈動かない〉ことが、どのように人の内部を変化させるのかに焦点を当てたい。

〈動かない〉とは、自然と流れる時間に従って対象物に向き合い、内的要因が変化し、精神の錬成が行われる状態である。本を読み、映画を観て、未知の「事件的現象」に出くわすと、ぼくたちは静かに言葉を生成し、反芻する。その過程で自己の深部が変化する。〈動かない〉身体がその深部を書き換え、展開された表現を言語化し、動きに表すのだ。行為が現れる前に、精神がまず動く。〈動かない〉ことが精神を育むのであると、『岸辺露伴は動かない』という題名から推測した。

主人公の岸辺露伴は、〈動かない〉ことで創作者や人間の本質を示しているように見える。彼は取材で漫画のインスピレーションを得ようと、各地を巡り目でネタを探しに行く。情報を得るために足で稼ぐその姿勢がすごい。ネットが便利な時代でも、リアリティに裏付けられた〈動かない〉感動を探している。しかし彼はあくまで観察者だ。現場の現象に反応した心身の連関が創作の衝動を引き起こし、〈動かない〉身体にある「アートの装置」が動き出すまで待つ。その装置は、彼の場合、漫画を描くことである。生来持ちうる「アートの装置」が〈動かない〉人間の言葉によって動かされる。創作物がこの世に現前するその営みにこそ、生きることの本質があるように思える。

脳内、精神の錬成に集中している時ほど創造的な時間はない。何かに追われ、何かを追い続ける流行の只中にいては気づけない創造の種がある。凄まじいスピードで過ぎる近縁の情報は目で追えない。落ち着いて、発見に目を光らせ、動きを緩慢にしてやると、草木の隙間に隠れたテントウムシの星の数や、海辺に打ち上げられ砂に埋もれた漁師道具の遺残物が自己の文脈に組み込まれ、想起され得なかった言葉の綾が立ち上がる。観察の程度にもよるが、自然現象の中に見られる驚きは、時に研究や創作の大事なアイデアに繋がることがある。

「Eureka!」と風呂を飛び出したアルキメデスのエピソードが思い出される。風呂に沈む身体、押し除けられた水の流れ、それをじっと見つめただけで、当時難解だった密度の問題に対する洞察を得たのだ。皮膚や風呂を伝う水の流れを目で追い、〈動かない〉ことで自然の流れを見つめ、言葉が当てられていなかった微細な変化に揺さぶられた体験が、先へ先へと人間の知恵を進めたことがわかる。

流行りのものを身に着け、有名人や仲間が言うことを真似て口にしていては、こうした気付きは得られない。喚き、呻き、動き、十分な観察がなされないままでは、発見は他人の発見に似てしまう。それは創作ではなく、コピーだ。

意識的に情報を掴みにいき、たまには動くのを控え、〈動かない〉身体の中で「動く」精神の海に浸ってみるのも良いだろう。創作の足がかりが見つかるまで十分な時間をかけ、野生の思考に身を委ねるのが望ましい。野生の思考とは、クロード・レヴィ=ストロースが言う「ブリコラージュ」に通じる。ありあわせの素材をパッチワーク的に組み立て、日常的な言葉を異化する。静かな観察の中に見出される関係性が、時に人類を遠くに連れて行ってくれる。学術や芸術が発展するように。

テンポを変えてみることも時には必要だ。進路に迷う人は、無理に大人になろうとせず、子供の時間を楽しみ、社会人になろうとせず、学生の時間を楽しんでほしい。しかしその反対もまた、成長し、老いていく「よろこび」を見つける一助となるだろう。「動く」ことと「動かない」ことによる言葉の生成に自己を見つけ、悩み、苦しみを抱えながら生きていく覚悟を持つ人の美しさを、ぼくは肯定したい。そういう人々は、たいてい「孤独」を愛する者である。

本題に入ろう、7月はこんな日があった。

07/07
1時、〈Ripen〉で、七夕が誕生日の、有村架純に似た知り合いを祝う。織姫と称し、店内の人気を集め賑やかな様子を尻目に帰宅。
10時、雨のはたけでアイコとキュウリとヘチマとシシトウが穫れた。水で洗った親指サイズのヘチマを齧る。蝉の聲がした。
18時、読書。坂口安吾『堕落論』の「教祖の文学」と「太宰治情死考」。写真の整理と執筆、就活の準備、キャリアの思案などした。
COTO COFFEE カフェラテ オーツミルク 730円、スターバックス ドリップコーヒー 420円。🐈

米谷隆佑「日記と珈琲_7月」note より

この日、18時の読書で坂口安吾の『堕落論』を読み、「孤独」と「野良」の関係について考察したいと思った。

孤独とは、野良になることだと考える。
かつて知り合いに「孤独とは何か」と問われ、「孤独とは一人でいることです」と、浅薄な答えを返したことがある。後にその回答を振り返ると、恥ずかしさが込み上げた。孤独を言葉で表現する難しさに気づかず、軽薄な言葉で済ませた自分が情けなく思えた。しかし、その瞬間の衝動が「個人」という概念をより深く考察するきっかけとなり、個人がいかにして帰属先との関係を通じて形成されるのかに思いを巡らすようになった。

改めて言う。孤独とは、野良になることだと。

ぼくは他者からの特権的な視点で軽蔑され、後ろ向きに見られがちな「孤独者」を正当化し、前向きな解釈を模索しようと思う。孤独の本質は、帰属先から適度な距離を保つことにあると考える。家族や会社、パートナーとの関係において、孤独者は特別な感情を抱きながら距離を取ろうとする。その特別な感情は決して生半可なものではなく、他者からの裏切りや暴力、あるいは自己の慰めや保護といった関係から遠ざかろうとする衝動によって生まれるものだ。個人が関係に疲弊し、二者間の「あわい」に逃避しようとすることで、孤独への道が現れる。この道は、まるで野良犬のように、コミュニティの「あわい」に姿を現し、孤独者を「厚みのある境界」の中に落とし込むことができる。つまり、孤独とは関係からの逸脱であり、どちらでもない存在になること、野良化することでもあるのだ。

様々な出来事を経て、意識的あるいは無意識のうちに孤独になる。何かを手放し、諦め、卓越した観念の持ち主である「諦観の人間」に憧れを抱くのは、ほとんど当たり前の反応だ。人は、その作用によって生まれた勢いに任せて、用意された道を進むだろう。この考えは、坂口安吾の「堕落」の概念と結びつけて想像することができ、論の補強にも役立つと考える。

この世から離れる道は、すべての人に用意されている。それを選ぶ人がいれば、選ばず不思議に思う人もいるかもしれない。あるいは、選んだ人に憧れ、同じ道を選びたがる人も現れるかもしれない。孤独とは常にアウトローな概念が付き纏い、正統派の諦めや村社会からの脱出、求道者の欲望に突き動かされた「彼ら」は、その道を進むだろう。

孤独でなければ得られないものがある。それは自己との対話だ。自己との対話とは、自分で考えることに他ならない。自分の知識を暗黙の知に変換するために必要な一人の時間は、孤独の中でしか得られない特権である。この道がすべての人に用意されているように、この特権もまた、すべての人に与えられているはずだ。

ひとりの時間に耐えられず、その道をやめたとしても、また戻ってくることができる。野良の道は閉ざされず、訳ありの「その人」を待っているのだ。

背水の陣で自分を追い込んだ一握りの人間に、もし宝石のような褒美がなければ、孤独はただの苦行になってしまう。自己との対話は恐ろしい。しかし、この対話こそが人間の営みの最大の価値であり、対話が重なることで自己がどこか遠くへと導かれる。その先にあるのは、黄金郷のような世界か、懐かしい香りがする故郷か。限りある時間と体力の中で苦しみ果て、結論へと導かれ、何かにぶつかり、満足感を得るだろう。

もし孤独が耐え難く、「病い」に変わりそうなら、道を避けて誰かに相談するべきだ。野良になるのは、その次の機会にまた考えればよい。

ここで「野良の象徴」を何個か挙げてみるので、読者との認識を擦り合わせようと思う。
同月28日に鑑賞した映画『山女』は村の禁忌とされた山男に憧れる少女の物語で、ある事件を機に、野良の道に堕ちることを躊躇なく選んでいた。18世紀の日本で野良になることは、現代でいう「戸籍抹消」くらい恐ろしい行為なのに、彼女は堕ちた。
猫は、日本の場合、飼われていなければ野生ではなく野良であることが多い。帰属先の「あわい」を漂う個体の観測は、時々心を躍らせる。街中の隙間にいたり、木陰で寝ていたりする🐈や🐈‍⬛は、野良の観測である。
また、動物の野良を想像すると、ぼくは幼少の頃の教科書で惹きつけられた若山牧水の歌を思い浮かべる。白鳥もまた「あわい」の存在である。

白鳥《しらとり》は哀《かな》しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

現代短歌全集 第一巻 若山牧水『海の声』株式会社筑摩書房 より

安部公房の『箱男』や『赤い繭』も、ぼくの考えの中では野良である。しがらみから外れた場所から世界を視認し他者であろうとする。社会から脱出した人々や、帰る家がなくなった男の野良化で世界の不条理を書き切ってみせた。
また、ヘルマンヘッセの詩、「孤独への道」でも野良の観念は現れる。〈孤独〉によってこの世から離れ、その先にある顛末に触れる世界観が特筆に値するため、今月のエッセイは、この詩をもって締めくくりたい。

この世がおまえから離れ落ちる。
おまえがかつて愛した
すべての喜びの熱が次第に失せ、
その灰の中から、やみが脅かす。

おまえの中へ
おまえは沈む、心すすまぬが、
一きわ強い手に押されて、
凍えながらおまえは、死んだ世界の中に立つ。
おまえの後ろから泣きながら
失われたふるさとの余韻が吹いて来る、
子供らの声とやさしい愛への調べが。

孤独への道は困難だ、
おまえが知っているより困難だ。
夢の泉もかれている。
だが、信ぜよ!
おまえの道のはてに、ふるさとはあるだろう、
そしてまた死と更生と
墓と久遠の母とが。

ヘルマン・ヘッセ『ヘッセ詩集』「孤独への道」新潮文庫 より
どちらでもない何者かへの憧憬を。

8月のエッセイは、7月になれば。

プロフィール
米谷隆佑 | Yoneya Ryusuke

津軽の医学生. 98年生. 2021年 ACLのバリスタ資格を取得.
影響を受けた人物: 日記は武田百合子, 作家性は安部公房, 詩性はヘルマンヘッセ, 哲学は鷲田清一.
カメラ: RICOH GRⅢ, iPhone XR


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