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日記と珈琲_4月の裏側

からだの8割が「珈琲と映画と本」で出来ている医学生です。4月の裏側、日記をもとに書いたエッセイです。


これを表すことができたら書くことを辞めても良い、と決めていることがある。
日記を書きつけて8ヶ月が過ぎた。習慣化できないことにコンプレックスを抱いていたと思えないほど、よく続いている。月毎にこうして記事を書いていると、案外長く続いたなと思って、ふと、始まりの頃の気持ちが薄れてしまったのではないかと心配になり、9月の一番最初の日記を読んで、「言葉が恐ろしくてしょうがない。」という記載に触れて今のぼくも変わらずkotobaを恐れていることがわかって安心できた。
kotobaは、今でも本当に恐ろしい。観測可能な一瞬が過ぎると、記録も記憶もされなければこの世から消えてしまう虚構の産物が、人々の心の底にトラウマや傷をつくる。傷付けた本人や事実が問題にされがちだが、ぼくには、凶器となったkotobaの方が気になってしまい、使われ方の正しさに疑問を浮かべることが多い。そんなものに毎日振り回されている。かまいたちのように、心のどこかに傷をつくっているkotobaの発信者と受信者、どちらも無自覚に流してしまうのはどうしてなんだろうか。何でもかんでも好きに放っていい産物ではないし、kotobaを制御する術を知るべきだ、と思う。よく表現しようと努められないのなら、やっぱりkotobaのない世界に生まれればよかったと悔いる。ヒトが虚構を認識しない世界で、身体言語と弱い音声言語だけで生きてみたい、と、そういう気持ちに支配され、抵抗するために日記を始めたんだと思う。
だけど、結局こういう気持ちも、事実みたいなことも、kotobaにしなければ誰にも伝えられないで宙ぶらりんになる。疑問を、問題にして広げられない。自分の中にしかなかった問題が、多くの人に届いて、共感され、あるいは批判され、kotobaの健全な世界をつくる議論を進めていきたいのだ。kotobaの作用を記述した文学、哲学、医学の世界から眺めて、新しい価値観を見つけたい。毎日日記をつけることは、その試行の先駆けでもあるのだ。書き続けて遠くの方に手を伸ばし、林檎のような果実が手に入りさえすればぼくは、ぼくがしてきたことを終わらせることができるのだと思う。

春の訪れを楽しむ間もなく、勝手に5月になって夏が近づいたような気がしていた。実習も始まって2ヶ月目に入り、ぼくは、ぼくが医者になった姿を想像することが増えたような気もしていた。
医者になればどんなことをするのか。医者1年目あたりのぼくはどうしているかという想像は、研修医と接していると一番想像しやすい。研修医は病院の中で最もフレッシュな医者であると同時に、医療行為の経験値が最も浅い職業である。そして、その様子はひよこのようにうぶでのろまで可愛らしくすら見える。緊張し、失敗しそうな雰囲気が見えたら、周りの医者や看護師などがサポートにまわる、大きなミスを起こさせない仕組みがある。これはある意味でラッキーだ。指導医や上級医の庇護下で好きなだけ医療を行い、責任を一緒に担おうとする教育システムのおかげで成り立っている。しかし、無責任な行為はできないので、難しいケースは毎回先輩医師に相談しに行き、最終チェックでGOサインをもらってようやく行為に移せる研修医がいることを知っている。1年後には、ぼくもそうなっていることだろう。いきなり第一線、その時点で数十人、数百人の仲間と働くことになる。いきなりチームリーダーになるような経験っていうのは、大丈夫なんだろうか。不安が過ぎる。
医師歴が長い人のそばにいて、想像できる未来がいくつかある。例えば、専門医になって数年経った、いわゆる1人前を越してベテランになった医師のそばにいると、研修医の次の次くらいの人生が垣間見える。医業に深みを増し、医師としての素質を資本に換え、どうやって病院に売り込んでいくのか、あるいは医師というブランドを逆手に、たちまち街のヒーローになるような夢や事業を立ち上げていくのか、そういう転換点がこの頃に現れがちだ。人によっては医局に所属し、まだ自由がないかもしれない時期ではあるが、そういう道の人には医局の外、卒業した後の華々しい人生が待っているとのことだから、敢えてこの話は避けたいと思う。
ベテランの医師になれれば、医師の確保に躍起な病院にスカウトされることだってあるだろう。働き方のデザインが、非常に柔軟である。以前、実習でお世話になったベテランの先生は、専門の資格を2つ持って、週の平日に4日働いて、残りの1日に好きなバイトやサブの資格の仕事をする、という生活をしていた。これは聞いていて魅力的に思った。バイト、とはいうが、職場の違う医業であっても良くて、デザインの仕事をしてみても良いかもしれない、と聞いたそのときに想像した。それは、医療デザインの会社。自分で立ち上げてみたいが、もし可能ならどこかデザインの仕事ができる事務所に所属して多くのプロダクトを作り、企画を立て、イベントを実施してみたいものである。そうした畑違いの仕事をしてみることで、もしかしたらメインの医業に新たな道筋を打ち立てるかも知れず、旧態依然の医療現場において重要な決定打を提案するかもしれないし、独自の経営路線を敷けるかも知れない。医者は、経営者でもあるのだ。
ぼくの武器を磨く時間。それを多く取れそうな1人前になれた後の生活、そういうものに強い憧れを抱いている。そして、あわよくば行政や企業と絡んでみて、街の活気を取り戻し、盛り上げ、医療のハードルが低い環境の整地を行っていければ……。あるいは、デザインに力を入れた病院であると打ち出し、そのすぐ側で自分のカフェを持ってみたり……。米谷隆佑という資本を最大限活用するならば、叶わない夢も無いのではないかと高を括ることがあるけれど、現在の資本から逆算される未来をよくよくようやく考えて導き出して、青森の医療をつくりたい。

淀みの底を表すことができた暁には。

5月のエッセイは、6月になれば。

プロフィール
米谷隆佑 | Yoneya Ryusuke

津軽の医学生. 98年生. 2021年 ACLのバリスタ資格を取得.
影響を受けた人物: 日記は武田百合子, 作家性は安部公房, 詩性はヘルマンヘッセ, 哲学は鷲田清一.
カメラ: RICOH GRⅢ, iPhone XR

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