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Y:97 できる=「慣らす」ことで「均す」こと

2024.2.3

長年、ずんと私の精神にこびりついている「自分はできない」という感覚。自己肯定感が低いというやつだ。

どういうことで、肯定できないのか考えていくと、一つ思い当たるのは何をやっても人より遅いということだと思っている。

何かを理解する、問題を解く、作業をする、走る、何でもいいのだけど、自分がやったことで「早い(速い)ですねぇ」と言われたことがほとんどない。(例外的にもう食べたの?速いねぇは多々ある。)

ただ、側から見れば、いろいろ達成しているように見える部分もあるようで、「もっと自信を持っていいと思いますよ」と言われることもある。
とすると、「できない」わけじゃないかもしれない。

仕事を変えてみて、自分が何も知らず、できず、より自己肯定感が下がる経験をした。かたや、新卒のような自分と、自分と同じくらいの年齢、またはずっと若い人が、とてつもなく自分より速く何事もできて優秀なのだ。

ますます下がる自己肯定感、地中深く埋もれたのだが、その時に疑問に思ったことがある。このような状況に陥ったのは、自分がこれまで努力を怠ってきたせいなのだろうかということだ。

知らない人が読めば、ずいぶん傲慢に聞こえるかもしれないが、自分の答えとしては、私はそんなに怠ってきたわけではないということだった。

時々、この人はあんまり努力してなさそうだけど、よくできるなぁという人はいる。努力を人に見せない人なのかもしれないが、もしかしたら、ほんとにしていないかもしれない。努力の多寡と今ある状況が関連している人とそうでない人がいるのだろう。

45年近く生きてきて、何となく思い至るに「できる」ということの大部分は「慣れている」ということだ。もちろん高いスキルで何かを実行する「できる」ということもあるのだけど、「できる」という状態の大半のことは「慣れている」ということなんじゃないかと最近思い始めた。

もし、私が他人より何かできないのだとしたら、それは私の能力が低いのではなく、他人がそのことに慣れていて、私は慣れていないだけなのだ。それは私も慣れたらできるということを意味する。

この気づきはなかなか大事だと思っている。慣れたら人並みになるのだと思えば、少なくとも自己肯定感は地表には戻ってくる。

ただ、問題は私はどうも「慣れる」ことに時間がかかる人間だということだ。「できる」ようになるということは、自分を環境に「慣らす」のだと思った時、音が同じ「均す」という言葉が浮かんできた。

新しいこと、うまくできないことというのは、これまでのこととつながらず、凸凹した状態だ。それに慣れる(自分を慣らす)というのは凸凹を均してスムーズにすること、それが進んで、均した状態というのは習慣のような、余計なことを考えなくともつっかえずに行動できることなんじゃないかと思う。

他の土地に旅行するよりも、暮らすことが好きだと以前書いたが、これも自分を「慣らす」ということで説明がつく。

私にとって重要なのは「慣れる」までの時間や試行回数(うまくいかないくても大丈夫)が多く用意できる環境に自分を持っていくことなのだろう。それはそれで、難しい話はあるが…

*写真は『ものづくりのしごと展 ~TASKOの机から~』で撮ったTASKOの棚の一角


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