人によって異なる「議論」

「議論」というのは一体なんなのだろうか。

これまで経験して感じるのが、「相手を打ち負かす」というのが「議論」と思い込んでいる人の多さだ。

本来、「議論」とはお互いの主張をもとに、両者を踏まえた新たな見解を導き出すものであろう。これは、古代ギリシャの時代で既に「アウフヘーベン」として確立されていた。それにもかかわらず、幼稚な「議論」で自己満足に浸っている人の多さに、自分は衝撃を受けた。

そのなかで、どう立ち振る舞えばよいのか、皆目見当もつかなかった。主張せず相手に合わせてみたり、自分の主張のあら捜しをして自己否定に陥ったりもした。

自分の意見、主張を曲げないならば「議論」はもとより、「会話」すらも成り立ち得ないのではないか。

そして自分は口を開くことが余計に怖くなった。


大切なことで、まだ確固たる解答を持てていないのだから、それを論じるのが「議論」であり、答えがないからこそ、提案が成り立つ。
そもそもの「論点」は、普段の対話や会話で見つかる「ズレ」を芽として発露する。

それを基本としての対人関係を構築していきたい。お互いに完璧ではないのだから、学び合い、理解し合い、構築する関係が、健康的ではないだろうか。

その具体的な手法とはなんなのか、考えていきたい。

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