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ピアソラ「ロコへのバラード」の大ヒット

スランプを救ったフェレールとの歌曲

アメリカからの帰国後、新しく結成したキンテート(前期五重奏団)の活動も軌道に乗り、1965年くらいまでのピアソラは作曲家として演奏家として精力的に活動を展開していました。

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1960年代前半に「天使と悪魔」シリーズ、「ブエノスアイレスの夏」など重要な作品が数多く書かれているのもこの頃のピアソラの油の乗った創造力を物語っています。
しかし、60年代後半に入ってからのピアソラは結婚生活の破綻から始まるプライベートのごたごたで精神的に行き詰ってしまい、まるで突然電池が切れたかのようにほとんど新しい作品を作れない時期がしばらく続きました。

そんな中、ピアソラの創造性をよみがえらせ、ユニークで大きな成功をおさめたものが、1968年から始まったオラシオ・フェレールとの共作による一連の歌曲でしょう。
オラシオ・フェレール(1933~2014)はウルグアイ出身の詩人で、タンゴの研究サークルを主催するほどタンゴにのめりこみ、十代の時以来の熱烈なピアソラ・ファンでした。

そのフェレールとピアソラが初めてコラボレーションしたのが1968年の小オペラ「ブエノスアイレスのマリア」でしたが、現代のブエノスアイレスの神話とも寓話とも取れる難解な内容は賛否両論で、興行的にはかなり苦しいところまでピアソラは追い詰められていたようです。
(この小オペラの中の「受胎告知のミロンガ(私はマリア)」「フーガと神秘」は現在でも時おり単独で演奏されています。)

数カ月の短命に終わった「ブエノスアイレスのマリア」でしたが、このコラボ―レーションに手ごたえを感じたピアソラとフェレールは、その後の数年間で数々の傑作を世に送り出していきます。(「チキリン・デ・バチン」「白い自転車」「最後のグレラ」など)
その中でも最も有名な作品で、高く評価されたのが次の「ロコへのバラード」でした。

「ロコへのバラード」の成功

この「ロコへのバラード」はブエノスアイレスで開催されたラテンアメリカ歌謡フェスティバルで2位を獲得していますが、1位の作品「最終列車まで」があまりぱっとしなかったこともあり、「ロコ」が2位になったことに納得しない群衆が乱闘騒ぎを巻き起こしています。
その後もこの曲の人気はアルゼンチンのみならず南米各地で高まり続け、ピアソラの作品の中では異例の大ヒットになりました。
「ロコ」のヒットはピアソラの作品が広く大衆に受け入れられた「新時代のタンゴの誕生」といえる記念碑的な出来事でした。
ピアソラは自らの新しいタンゴでついに同時代の人々の心をわしづかみにしたのです。

さて、タイトルの 「ロコ(Loco)」とは狂人という意味ですが、スペイン語では「すばらしい」「夢中になっている」など肯定的な意味でもとられます。 
頭にメロンをかぶり、裸にシャツの模様を書き、手にはタクシーの旗を持った珍妙な姿で、「さあおいで、踊ろう!飛ぼう!」と高らかに歌い上げるこの作品の中のロコは、愛と自由の象徴的存在なのかもしれません。
「ロコ」はフェレール特有のシュールレアリズム的で難解な詩ながら、ピアソラの音楽の生み出す強い説得力、熱狂と多幸感が、胸に響く魔法のような効果を生み出しています。

オラシオ・フェレールは後に、『ピアソラの音楽は「カフェの音楽」「場末の芸術」でありながらも、普遍的でクラシックな芸術である』と語りました。
かつてはタンゴとしては高尚すぎて難解と称されたピアソラの作品ですが、その一方で彼の音楽は常に大衆音楽としてのタンゴの側面をあわせ持っています。
こういった芸術性と大衆性の絶妙なバランス感覚が世界中で今もピアソラ作品が愛されている大きな要因なのでしょう。

再びスランプ…そして心臓発作

「ロコ」の成功で勢いに乗ったピアソラは、1971年には五重奏団を拡張した九重奏団「コンフント9」を結成し、「バルダリート」「AA印の悲しみ」「スム」など傑作を書き上げました。
数年間絶頂ともいえる創作意欲を見せたピアソラでしたが、やがて日々の激務に加え、押し寄せるアルゼンチンの政情不安、恋人である歌手のアメリータ・バルタールとのすれ違いなど悪い条件が重なり始め、再びスランプにおちいりました。
そして1973年の後半、ついに突然の心臓発作がピアソラを襲うことになります。

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