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ピアソラとタンゴの関係は…

今日はアストル・ピアソラの誕生日。
2024年で生誕103年となります。
ということで超久しぶりですが、noteを少し書いてみました。

タンゴ・グレリオとして活動する中でピアソラを弾く意義を常々考えていますが、「タンゴの中から見たピアソラ像を伝えていく」という事が自分たちの大切な役割だと考えています。

ピアソラの「タンゴ愛」

ピアソラは「タンゴの破壊者」という悪名や「タンゴにクラシックやジャズの要素を取り入れて新しい演奏形態を生みだした」という解説から「いかに従来のタンゴとは違うか」という点にばかりクローズアップされがちです。
またピアソラ自身も前衛音楽の旗手という気負いなのか、言いすぎてしまう悪い癖のせいか、タンゴ界を厳しく批判する言動が数多く残っている事もそれに拍車をかけています。

しかしその一方で、タンゴについて愛情を持って語る姿、同時代のタンゴ界の同僚、先輩、ライバルたちとの様々な交流、リハーサルの合間に見られた古いタンゴを楽しそうに演奏している姿…こういったタンゴにどっぷり染まった人間としての姿もピアソラのもうひとつの一面なのです。

ピアソラはクラシック、ジャズ、ロック、フュージョンなど様々な音楽の要素を貪欲に作品に取り入れ、実験し続けた「勉強好き」な音楽家でした。
しかしそれでいて彼の音楽が方向性を失って崩壊しないのは「タンゴ」という太い柱を中心に据えているからでしょう。
そしてそのタンゴは彼が独自に生み出したわけではなく、多くの偉大な先人たちが少しずつ発展させてきたものでした。

たとえばタンゴを洗練させた最初の改革者フリオ・デカロ。
ピアソラがタンゴに開眼するきっかけとなったエルビーノ・バルダーロ。
「モダンタンゴの父」として尊敬した悲劇の天才アルフレド・ゴビ。
「ジュンバ」「3・3・2」のリズムなど、大きな影響を受けた「現代の伝統派」オスバルド・プグリエーセ。
そしてもちろん「エル・ゴルド」アニバル・トロイロ。

多くの人々が作り上げたタンゴの世界とつながっていることがピアソラの音楽に強度を与えています。

ブエノスアイレスから世界へ

タンゴはアルゼンチン、それも首都であるブエノスアイレスの情景やそこに住む人々の心情を映し出してきた音楽です。
これほどまでに一つの都市に強く結びついた音楽というのも珍しいでしょう。

ピアソラは『我が街を彩り、そして世界を彩るのだ』というトルストイからの引用を好んでいたそうです。

「自分の作品を通じてブエノスアイレスの音楽であるタンゴを世界に広める」ということはピアソラの生涯の夢でした。

欧米での活動が中心となり、世界的に名声が高まりつつあった中でも、ピアソラはまるでタンゴのエッセンスを吸収しようとするかのように、定期的にブエノスアイレスに帰っていたのもその表れでしょう。

友人でもあった作曲家ラロ・シフリン(『燃えよドラゴン』『スパイ大作戦』など)のピアソラ評は非常に興味深いものがあります。

『どこでも通用する音楽家だが、ブエノスアイレスの音楽に焦点をあてる必要があった。地域性が増せば増すほど、彼は世界的になったからだ。』

ローカルであればあるほど、グローバルな存在になるというのはタンゴの、ピアソラの音楽のユニークさでしょう。

私はタンゴの人間だ

1988年にプグリエーセ、サルガンなど存命のタンゴ界の重鎮が一堂に会した大きな会合が開かれたとき、ピアソラは次のようなスピーチを行いました。

〈今までの長きにわたり、私たちの間で起こっていた争いが愚かなことだと気づきました。私はトロイロとキャバレー「ティビダボ」で演奏したことを覚えているうちは、タンゴを辞めるわけにはいかない〉

ピアソラに対する評価はこれからも多くの論争を生むことと思いますが、少なくとも彼が「タンゲーロ(タンゴ弾き)」という肩書を一生名乗り続けたことは忘れてはいけません。

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