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VILOVILO 2023 青木京太郎個展

KYOTAROインタビュー:「VILOVILO」は人の幸せのために。多次元的宇宙幸福論ー「+DA.YO.NE.ギャラリー」オープンに寄せてー

米原康正がいよいよ自身のギャラリーを、阪急メンズ館内にオープンする。その柿落としの展覧会を飾るアーティストがKYOTARO/青木京太郎である。

「MAISON MIHARA YASUHIRO」の靴を取り扱う原宿の「MY Foot Products」での展示で作品を観たのが最初だ。なんとも形容しがたい、不思議な質感のキャラクターの作品シリーズは観たままに「VILOVILO」という名前が付けられていた。

その時のインパクトが忘れられずにいろいろ調べてみると、「VILOVILO」だけでなく多様な画風の作品群を目にすることができる。ミステリアスでいて神秘的な作品の数々は、この世のものとは思えない、美しい様相を呈している。“多様的原理主義“を掲げる+DA.YO.NE.ギャラリーのデビューに、これほどふさわしいアーティストはいないだろう。

順を追って話を聞いていくと、KYOTAROはどうやら精神世界への扉を開けているという。「オカルト」と眉を細める人もいるだろうが、どうやらまんざらでもなさそうである。

この記事を書き起こしている最中、ミシェル・ヨーが主演の「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」、通称「エブエブ」がオスカーを総なめにしているニュースを観た。今まで、主役になることができなかったアジア人俳優の、ガラスの天井を文字通り突き破ったこの作品の快挙は、センセーショナルに報じられた。

「エブエブ」はマルチバース、つまり「多次元宇宙」を題材にしている。複雑怪奇な舞台設定とは裏腹に、作品が観客に伝えるメッセージはシンプルだ。「人は人を愛し、幸せになるために生きている」ということ。

こんな世の中で、綺麗事に聞こえるだろうか。いやだからこそ、綺麗事を貫くのは難しい。挫折し、苦悩した末にKYOTAROは「多次元宇宙」、精神世界への扉を開け、行き来できる術を見つけたに違いない。そういう結論に至った。KYOTAROは自身の大いなるエネルギーに覚醒し、アートという表現で「VILOVILO」という新しいコミュニケーションを生み出した。さかのぼれば今から21年も前に、だ。そして再び次元を超えて、現代に「VILOVILO」を召喚する。我々にシンプルなメッセージを伝えるために。

「人は人を愛し、幸せになるために生きている」。

KYOTAROのめくるめく多次元宇宙的ライフストーリーを読み終えたとき、もしかしたら新しい扉を、あなたも開くことができるかもしれない。


「お前の絵、ええやん!東京来いや」

ーKYOTAROさんが絵を描き始めたのって何歳くらいから覚えていらっしゃいますか?

KYOTARO:2歳くらいからぐるぐる紙になんか描いていたと思いますよ。家がアートOKな家柄だったので。画材がたくさんあったりとか、親戚に画家がいたりとか。

米原康正(以下:米原);ご両親はどんな仕事をしていたの?

KYOTARO:父がグラフィックデザイナーで母は絵がうまかったり親戚に漆を塗る職人さんがいたり
曾祖父は着物の柄をデザインしたりとか。そういう家系ではありますね。
普通の家なら子供が観たらダメなやつとかもたぶんありました(笑)。

米原:どんなのそれ?

KYOTARO:言ったらヌード、いわゆる裸婦像って感じのものとか
グロテスクな芸術的な感じのものがあった記憶があります。
なんかニュアンスが難しいんですけど。

米原:俺もね。小学校くらいのころから娘に自分の写真をコピーする仕事手伝ってもらってたな。世の中にはいいヌードと悪いヌードがあって、お父さんのやつはいいヌードだっつって。娘に言い聞かせていた。

ー当時、ご自身が絵を描いていたという記憶は実感としてありますか?

KYOTARO:そうですね。チラシの裏とか。どうやら描いている間は静かだったらしくて、スケッチブックやクレヨンとか、どっさり親が渡してくれました。

ーKYOTAROさんはご自身で漫画にも影響を受けているとのことですが、具体的にはどういった作品に影響を受けているのでしょうか?

KYOTARO:衝撃的で意識として記憶があるのは、手塚治虫さんですかね。
親戚の家に置いてあった「ブラックジャック」から読み始めました。小学校くらいになると自分でも漫画を描くようになるんですけどそれまではひたすら読んでました。
鳥山明さん、あとはガンダムの文字なんかは読まずにデザイン的な部分を見ていたり
ウルトラマンの怪獣図鑑もよく見てました。

米原:男の子っぽい嗜好だよね。

KYOTARO:そうですね。メカデザインというか、無機物だけど有機的な質感を感じるデザインが現れている作家が好きでした。一方で、高橋留美子先生の「うる星やつら」とか、テレビで「ミンキーモモ(魔法のプリンセス ミンキーモモ)」を観ていたり。ちょうど私的には男の子と女の子の中間くらいの感覚を攻めていました。

ーそういったものに影響を受けながらKYOTAROさんも漫画を描き始めるわけですよね?当時、どういった作品を描いていたんですか?

KYOTARO:描くものもちょうど少年漫画と少女漫画の間のような感じでしたね。そこからずっとオリジナルの絵を描くにはどうしたらいいかを模索し続けます。そして17歳のころに、イーストプレスから創刊された「COMIC CUE」※で漫画家としてデビューするんですけど、それをきっかけに、アメ村でTシャツを作って売り始めたらブレイクしまして。それが18歳から19歳くらい。

※独自の作風の作家を起用し、毎号ひとつのテーマをイシューする形式のコミック誌。創刊当初からVol,3まで責任編集は漫画家・江口寿史が務め、掲載作家には現在も活躍する錚々たる漫画家が名を連ねる)

ーキャリアのスタートは漫画家として始まっているんですね。関西でブレイクしてから上京されたという流れですか?

KYOTARO:当時、アメ村に『TANK GALLERY』というギャラリーがあって、そこで写真家の野村浩司さんが個展をやっていたんです。
行って作品を見せたら「お前の絵、ええやん!東京来いや」って言われて、行くことになりました。野村さんが恵比寿の「P-House」とその下のバー「Guest」に出入りしていて、「P-House」にはいろいろなクリエイターの方が集まっていたので、そこで人脈が広がっていきましたね。



挫折と「VILOVILO」の誕生

ーどんな人にお会いしたんですか?

KYOTARO:「CLUCH.」というブランドのオフィスで絵を描かせてもらっていたときに、人を通じて五木田さん(五木田 智央)にご挨拶させていただきました。五木田さんと言ったら、ものすごい作家の方じゃないですか。当然私も知っていたので、自分の漫画を見てもらったりしたんですけど、あの五木田さんが首をかしげられて、「ああ、私東京でやっていけないな」と、挫折しましたね(笑)。ご本人に詳しくは聞いていないんですけれど。

ーご本人は意識していないかもしれないけれど、KYOTAROさんからすると強烈な体験ですね。

KYOTARO:その当時、やっちんさん(三原康裕)にもお会いしていて、同じように漫画を見てもらったんですけど、どうもハマっていない感じで。東京では芸術家肌の方とお会いすることが多く、漫画というのは畑違いなのかな。と思っていた気がします。絵はいいけど、漫画は...みたいな反応をもらうことが多かったですね。

ーその頃からKYOTAROさんと三原さんは交流があったんですね。KYOTAROさんは三原さんが手がける靴屋「MY Foot Products」で「VILOVILO」展を開催していますよね?

KYOTARO:そうですね。一昨年、福岡から始まって、昨年にかけて。

ー職場が原宿なので、僕も観に行ったんですが、それが21年ぶりの「VILOVILO」シリーズの展示だったと知って、そんなに前からあったものなんだと驚きました。当時、ご自身のルーツである漫画がどうにも通用しないぞ、という状況で「VILOVILO」はどのように生まれたのでしょうか?

KYOTARO:東京で生き抜くには、私は漫画じゃなくて、アートなんだと。だから漫画をいかに崩してアート作品にするかをすごく考えました。そんな中で思考錯誤して「P-House」でやらせてもらった個展が2000年の「VILOVILO」なんです。

ーでは、KYOTAROさんのアーティストとしてのルーツも「VILOVILO」なんですね。「P-House」ではどのようにして個展が決まったんですか?

KYOTARO:やっちんさんが「P-House」のディレクターの秋田(秋田敬明)さんに推してくれていたんです。秋田さんと木下さやかさんという方がいて、その人たちから「キャンバスに描きなよ」とか、「VILOVILO」という名前のアイデアを出してくれたりとか、アドバイスしてくださって、ディレクションしてもらっていました。そうして「VILOVILO」が生まれたんです。

ー「VILOVILO」という名前はどうやって決まったんでしょう?

KYOTARO:KYOTARO:木下さやかさんが、なんか絵の質感がビロビロしてるから
「VILOVILO」が良いんじゃない?って言ってくださったんですよ。

ー当時、KYOTAROさんはTシャツがヒットして、野村浩司さんの目に留まりそのまま上京したわけですけど、どのようなスタイルで生活していたのですか?

KYOTARO:色々なところでバイトしながら生活してました。大阪に「カジカジ」という雑誌があるんですけど、そこで漫画の連載が決まって漫画の連載を続けながら、「Guest」でバイトして、白金にあったデイリーストアでバイトしてって感じ。あと、季刊誌でロッキング・オンが出してた、「Comic H」でも漫画を連載していました。

米:あったねー。それって創刊のときから?

KYOTARO:そうです。創刊から。

ーじゃあ、連載2本抱えながら、バイトもしながら。イメージ的には連載ってすごくハードなイメージがあるんですが。

KYOTARO:でも、季刊で短編ということもあり、週刊の作家のような激務という感じではなかったです。なんとかやっていましたよ。意外と平気で楽しめていました。そもそも、仕送りはしないし、もらわないっていうスタンスの家なので、自分で頑張りなさいという教育方針で、自分だけでやっていこうって感じでした。応援や支援は大変なときにしてくれていましたし、両親には感謝しています。

ーそして22歳のときに「VILOVILO」を発表するわけですが、当時の反響とかって覚えていますか?

KYOTARO:村上(隆)さんは見てくれていたかわからないですけど、五木田さんや、やっちんさんがDMにコメントをくださったり。あと、キュレーターの河内タカさんが来てくださったり、今はアーティストとして活動している角田 純さん、蜷川実花さんも来てくださいました。

ー錚々たる人たちの名前が挙がっていますが、ネットもまだ黎明期の時代にそれだけ影響力は大きかったのかなと推測するんですが、いかがでしょう?

KYOTARO:「P-House」で交流が増えたこと、周りのサポートのおかげもあってのことだと思いますけど、どうなんでしょうね。そこからまたコロコロ作風が変わっていくので「VILOVILO」自体の定着はどこまであったのかはわからないです。やっちんさんにはアレを続けろと言われるんですが、経験がなかったから難しいと思いました。いつか弾けるだろうと。だからいろいろなところでバイトして人と交流して作風もいろいろためしていましたね。

ーバイトする場所で会う人も変わっていく感じですか?

KYOTARO:繋がっている人もいれば、新しく会う人ももちろんいました。「poetry of sex」で働いたときは五木田さんとは引き続きお会いしていたし、「PURPLE Fashion Magazine」のエレン(・フライス)と出会うことができたり。東京で、いろいろな場所でバイトできて、いろいろな人に会えたのは良い影響だったと思います。

ーどんなジャンルの仕事が多かったですか?

KYOTARO:主には飲食関係ですね。飲み屋とかレストラン。三田の「アダン」(現在は泉岳寺に移転)、今はもうないですけど、白金の「ケセラ」で働いてました、オーナーが青山の「カイ」など東京の夜を盛り上げ続けているメンバーで面白かったですね。最高でした。アーティストの活動も並行してやっていて「P-House」のあとは「A NEW SHOP」ってご存知ですか

ー存じ上げないです。

KYOTARO:亀石さん、亀石兄弟という人たちがやっていたブランドで原宿のお店で一時的にギャラリーとして絵を展示させてくださったんです。米さんも繋がりがあるんじゃないですか?

米:おお!仲良いよ。昔、地方に海外のアーティストを連れて行ったり、面白いことをいっぱいやったよ。

KYOTARO:2002年くらいかな。原宿の半地下のお店で個展をやらせてもらったんですよ。

米:出てくる名前が、本当に今もつながる豪華メンバーだよねえ

KYOTARO:その頃に井出靖さんの事務所に所属することになって、角田さん、五木田さん、あと宮永リサさんと私が入ったのもそれくらい。このまえ出た井出さんの自伝(Rolling On The Road 僕が体験した東京の1960年代から90年代まで)にも書いてあるんですが、そこは1年くらいで終わってしまうんです。そのあと「MIZUMA ART GALLERY」に所属する流れになっていきます。

KYOTARO、精神世界へ

ーいろいろな出会いを経てきているKYOTAROさんですが、その当時はアートで食べていくという明確な意思は固まっていたんでしょうか?

KYOTARO:そうですね。相変わらずビンボーは続いていましたけど。MIZUMAに入ったのが2006年から2007年くらいなんですが、その頃に精神世界にハマっていきます。

米:それってなんかきっかけあるの?

KYOTARO:ある人と出会った翌日からですね、出してる波動に同調したんでしょうかね?

ーえ!?

KYOTARO:そういうことってあるんですよ。人と会ったことを機に、パカっと開いちゃう。それから何年か、チューニング期に入ります。その頃はもうなんか化け物的な感じ。人間っぽくない時代です。そのあと、安定していくんですけど(笑)。

ーどんな風に人間っぽくないんですか?

KYOTARO:なんていうんでしょう。そこに立っていても何か聞こえてきたり感じたり、感覚が鋭くなっている状態。これは人間に本来、もともと備わっている機能が開放されたんだな。と、そんなことを思いましたね。

ーそれって、作品制作にも影響しますよね?

KYOTARO:良くも悪くも影響します。2008年に、MIZUMA ART GALLERYの運営する目黒の「MIZUMA ACTION」で「天界トリップ」という作品を発表したんですけど、それがすごいエネルギーの塊で、全部売れちゃいましたね。今でも龍をモチーフに絵を描きますけど、当時から龍を描いていました。その当時は龍を描き慣れていなくて、バタンバタンするエネルギーをコントロールできるように取り組み描いていました。

ーその開放トランス状態を経てKYOTAROさんはどうなっていくんですか?

KYOTARO:そこから親も体調を悪くして、さらに自分も体調が悪くなってしまったので一度、京都に戻ることになりました。

ー京都へ戻ったのは何年くらいの頃の話ですか?

KYOTARO:2015年からですね。その頃は籠るように生活していました。

ーそれはKYOTAROさんにとってはいい意味での籠り方だったんでしょうか?

KYOTARO:結果として正解だったかはまだ答え合わせができていないんです。去年の10月に父が亡くなってしまって、今は場所はどこでも良い感じになりました。京都に籠っている2019年の中頃に再度、覚醒したタイミングがあって、そこからあらためて作品を描き始めました。

ー再覚醒したきっかけはなんだったんですか?

KYOTARO:その頃、返さなくちゃいけないお金が膨らんでしまって、とにかく京都のいろいろなところで働いていたんです。単純作業の工場から、クリエイティブな企業まで、人の働いている姿をガーっと見た後に覚醒したので、その時の自分には情報収集が必要だったんだなと納得しています。


私は絵を描かなければいけない

ー働く人の多様性を見てどんなことに気付かされたんでしょうか?

KYOTARO:製造業や運送業の仕分けとか、コンビニのお弁当を詰めたりいろいろな現場をみていたとき、これを10時間やるんだとしたら、私は絵を描いた方がいいなと(笑)適材適所というか、誰でもできる仕事なのに、一際その仕事に長けている天才的な人がいる。それを見たときに私はやっぱり絵を描かないと、と思いました。

ーKYOTAROさんを活かすのはやはり絵だと。

KYOTARO:労働の情報を得ることは必要だった。だけど私がその中に浸かってしまってはいけないなと。私がスマイルマークひとつ描いただけだったとしても、それを見た人を幸せにできるパワーを持っているんだと、再確認できました。自分が幸せになるより、私の作品を道具として、1人でも多くの人に使ってもらって、幸せになってほしいと心から思えた瞬間があったんですよ。

ーそれは具体的にはどんなシチュエーションだったんですか?

KYOTARO:伊勢神宮にお詣りをしたとき、自分を俯瞰した視点のイメージが浮かんできたんです。自分の信頼している人たちが、私が生み出した道具を使って豊かになっている。そんな光景が浮かんできたときに、それまでは自分が稼ぐために利己的に絵を描いていたけれど、これからは人の幸せのために絵を描こうと思いました。それを目指して、今やっているところです。

ーKYOTAROさんの言う“道具”とは作品を指すのでしょうか?

KYOTARO:単純に作品という物質的なことだけではなく、波動とかエネルギーを発するもの。それを作ることに私は長けているから。幸せをお裾分けするような感覚です。それを今まさにやっているところ。それをやり始めてから、再会することが多くなったり、いろいろな人との繋がりができてきた。私のことを気にしてくれる人と自然と引き合っているような出会いが増えています。

ー米さんと今回展示を行うことになったのもその延長線にあるのでしょうか?

KYOTARO:まさしくそうです。米原さん、葉子さんとも、まだ数えるくらいしか顔を合わせていないけど、もうずっと昔から知り合っているような感覚です。

米原:昔の「VILOVILO」も観ているけど、2021年の「VILOVILO」を三原さんのところに観に行って、ぜひ一緒にやりたいと思って。速攻でメッセージを送ったんだよね。三原さんも「よねちゃんいいでしょ?なんか一緒にやっちゃいなよ」なんて、あの調子で推してくれてさ。それが今回実現したって感じだね。やっぱり「VILOVILO」だよね!って三原さんも言ってたよ。

KYOTARO:ありがとうございます。嬉しいです。

ー21年ぶりに三原さんとともに「VILOVILO」へと回帰したのはどんな経緯があったんでしょうか?

KYOTARO:ちょうどコロナが世界的に蔓延し始める2019年から、2020年に差し掛かる頃コロナが流行し始めて暗い時代がやってきてしまったからこそ「ポップアートいいやろうな〜」と思ったんですよ。じゃあ「VILOVILO」だろうと。そこでやっちんさんに相談しました。

ー三原さんに相談しようと思ったのは「P-House」時代のことが影響しているんでしょうか?

KYOTARO:そうですね。「P-House」の人たちのおかげで「VILOVILO」は生まれましたし、秋田さんともコンタクトをとっていました。「VILOVILO」をやるに当たって、一過性で、泥みたいに、ただ流れてしまわないように展開するにはどうするかを考えました。やっちんさんはイメージを具現化するパワーがすごいので、相談しながら「VILOVILO」を制作していったんです。

ーやはりコロナ禍を経ての影響は大きかったですか?

KYOTARO:そうですね。展覧会もできなくなって、人と会えること、いろいろなことに気付かされました。クリエイティブなことが出来る喜びとか。再確認ですね。マネージャーをやってくれているあやのさんにも最近再会したんですけど、楽しいなーって。人から与えてもらっている幸せの大きさに気づけた。だから自分よりも人のためにと思って「VILOVILO」を描くことに注力しています。

米原:さっきインタビュアーの望月くんとも話していたんだけど、コロナ以後って、やっぱり自分から何かを発しないと気づいてもらえないんじゃないかと思うんだよ。KYOTAROにとっても、そうなんじゃないかって。そこにピピっと共鳴する人たちが集まって、コミュニティを形成していくっていうか。そんなメンバーが今回の「VILOVILO」で集まった気がしているよ。

KYOTARO:誰がいちばんとかじゃなくて、誰が欠けても成り立たない。そういう時代が来たなと思います。横に並んで歩を進めていく感じ。やっちんさんとの「VILOVILO」も本当に楽しかったですし。仕事としてご一緒するのは初めてだったけど、やって良かったなと思います。今まで伝えることに苦労していたものが、簡単に伝えられるような。それまでの時間がとにかく短くなった。これからそうやって意識を共有していけるんだろうなと思います。

1秒でも永く、幸せを感じてもらうために


ー制作も佳境を迎える最新の「VILOVILO」ですが手応えはいかがでしょう?

KYOTARO:今まさに完成度を高めている最中です。(注:インタビューを行ったのは展覧会開催の2カ月前)「VILOVILO」はまだ発展途上で、いくらでも成長する可能性がある。今回はまさに、今までよりもさらに面白いものができると思います。米原さんたちとの初仕事なので気合い入ってますし、調子は良いですよ。

米原:今回の「VILOVILO」のテーマはなんだろう?

KYOTARO:前回は1枚の絵に、単体のキャラクターが登場する作品が多かったんですけど、今回はたくさんのキャラクターをぎゅっと凝縮した作品が観られると思います。

ー「VILOVILO」に登場する摩訶不思議なキャラクターの着想はどのように得ているんでしょうか?

KYOTARO:基本的には漫画に出てくるようなコミカルなキャラクターをビロビロさせる。ただ柔らかくするんじゃなくて、オブジェのような質感を持たせているところもポイントです。石みたいな感じのオブジェ感を持ちつつ、柔らかそう。柔らかい針みたいなチグハグで変な質感を目指しています。2000年に発表したものとは全く違う表現。だけど「VILOVILO」の存在する次元は同じ。表現は時代に合わせて少しづつ変えていこうとは思っていますが良い悪いのない平和な世界に「VILOVILO」はいます。

ーもともと、幼少期に手塚治虫や鳥山明といった漫画に影響を受けていたと話していましたが、そういったリファレンスもあるんですか?

KYOTARO:やっぱり放っておくと、超好きな人の絵に似てきてまう。アトムっぽくなったり、アラレちゃんっぽくなったり、近づきすぎないように瞬時に気づいて逃がしていますね。あとは漫画のようなアートって流行っていますけど、ジェフ・クーンズさんや、マイク・ケリーさんとか大好きなんですけど、それには混じったり被らないように。一線を画してオリジナリティを追求しています。

米原:「VILOVILO」を描くときってどんな音楽を聴くの?

KYOTARO:「VILOVILO」はポップスが多いですかね。普段はあまり音を聴かずに制作しているんですけど、無音かもしくはヒーリングミュージックくらい。だけど最近いいなと思っているのはマギー・ロジャース。アメリカのシンガーソングライターですけど、歌声が素敵だなと思いました。

米原:俺も最近、Apple Musicにすすめられて聴いたよ!

ー確かに「VILOVILO」に合いそうですね。お話を聞いていて今なお、オリジナルの完成を目指して、思考錯誤しているということですが、「VILOVILO」はKYOTAROさんの壮大な計画の一端というか、今後もますます楽しみになりました。

KYOTARO:だんだん納得の行く完成度までたどり着く時間も短くなって、制作のバランスがとれるようになってきましたので、私自身も楽しみです。


ー最後に個展に向けて、意気込みをお願いします。

KYOTARO:戦争を始めいろんなニュースがあふれていて、テレビの中ではひどく悲しい出来事が起きている。でも私が関わる関係性の中にはそんなの1mmもなかったりとかする。自分が安心できる場所、安らぐ時間、それをギャラリーで感じていただけたら。むしろそういう場所を増やして行く方がクリエーター・アーティストにとっては重要な気がしているし、エンターテイメントの本質じゃないかなと思っています。

とにかく「幸せ」とか、「超楽しい」という気持ちを1人でも多く、1秒でも永く感じてもらえるように描いています。



青木京太郎AOKI KYOTARO
1978年京都生まれ京都嵯峨美術短期大学
グラフィックデザインコース卒業、ドローイング
ペインティング等、幅広い分野で活動
ミヅマ・アクション個展、海外グループ展多数参加
近年では「Maison MIHARAYASUHIRO」
Maison.Labo.MY Foot Productsにて
「VILOVILO」個展を開催

3月25日から開催中の日本橋アナーキー文化センターVol.5にも出展中

Tomohisa“Tomy“Mochizuki

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