卒業制作で考えた「スケボーと建築」 vol.1
はじめまして。大阪芸術大学建築学科の米田龍人(よねだりゅうと)と申します。
今回は、大学4年間の集大成である卒業制作で僕が考えた「スケボーと建築」とタイトルになった「オルト・フルーイディティーズ」という存在について書きたいと思います。 少し長いですが最後まで読んでいただけると嬉しいです。
vol.1では、卒業制作の始まりから具体的な設計に至るまでの分析や考察の段階を書きたいと思います。
まず、なぜ「スケボーと建築」をというテーマで卒業制作をしようと思ったのか。それはすごくシンプルで、中学生の頃に始めてから今でも続けていて、僕の日々の生活において欠かすことのできないスケートボードという存在と、大学に入ってから大好きになった建築という存在を、なんとか結びつけられないかと思ったからです。卒業制作が始まった頃の「スケボーと建築」はそのくらい漠然としたものでした。
「スケボーと建築」と言われると一見、スケートボードができる施設を設計したのかと思われるかもしれません。しかし、スケートボードとは路上、つまりストリートでの行為を文化とし、そこでの行為をアイデンティティとしている部分があるので、専用の施設を設計することには抵抗があったし、自身のアイデンティティに反している気がしたので、それはできませんでした。
なので、「スケボーと建築」を直訳的に考えるのではなくて、スケートボーディングという行為の本質や、スケートボーダーの持つ独特な解像度といった身体性を、都市的に分析する作業から始めました。
“都市と身体”という観点からのスケートボードの分析
スケートボードがオリンピックの正式種目に選ばれたことによって、スケートボードそのものの認識は増えてきました。しかし、その認識とスケートボードの本質に対する理解には大きな乖離が生まれてしまっていると思ったんです。
前述にもあるように、街のストリートで行われるスケートボーディングは、スポーツとしてのスケートボードとは全く異なる文化的行為であるということをまずは理解する必要があります。つまり、スケートボードはスポーツ的行為と文化的行為という2つの側面を内包した行為と言えるわけです。
しかし、現代では文化的行為とされるスケートボードはしばしば排除の対象として解釈されています。なぜなら、こうした行為は常識外れで危険かつ無意味な破壊行為として見なされてしまうからです。
しかし、“都市と身体”という観点から見たときのこれらの行為は「分裂的」な都市に対する空間の再生産であると同時に、都市に対する批判的・身体的実践であると言えるのではないかと考えたんです。
もう少しわかりやすく言うと、
ストリートでスケートボードをする場合、空間(場所)は固定されない(常に流動的であるということ)と、スケートボードは行為の対象となるモノの持つ固有の意味を再翻訳できる(ベンチの上をグラインドするなど)です。
つまり、スケートボーダーたちは、あらゆる連関が意図的に分断され均質化されてゆく都市を、身体的実践において分解し、再構築することができるという独自の解像度を持った身体だと言えるわけです。
ここまでが、“都市と身体”という観点からのスケートボードのおおまかな分析です。
そこから、計画の対象となる身体をスケートボーダーだけに限定しない方向へと考え方をシフトして、スケートボーダーと似た身体性や解像度を持った存在たちを見つけるべく、アメリカの社会学者クロード・フィッシャーの『下位文化理論』を参照しながら、都市における下位文化(サブカルチャー)の分析を行いました。
都市における非通念的下位文化
下位文化(サブカルチャー)とは、「より大きな社会体系や文化の内部にある、相対的に独自の社会的下位体系(一群の個人間ネットワークと制度)と結びついた一群の様式的な信念、価値、規範、習慣である」(Fischer,1975:1323)。
クロード・フィッシャーは下位文化を以上のように定義しています。また、下位文化は社会的支配との衝突によって「淘汰されていくタイプ」と「強化を増していくタイプ」に分類されるとし、前者を通念的下位文化、後者を非通念的下位文化としています。そして、下位文化の発達過程と強化のプロセスを4つの仮説命題に基づいて提起しています。
場所が都市であればあるほど下位文化の多様性は増大する
場所が都市であればあるほど下位文化はより強化される
場所が都市であればあるほど伝播の源泉が増大し下位文化への伝播が増大する
場所が都市であればあるほど非通念性の発生率はより高まる
フィッシャーの『下位文化理論』で重要なのは、下位文化内における「強化を増していくタイプ」つまり、非通念的下位文化の存在です。
ストリートでの行為を営みや文化とするスケートボーダーなどの身体を、この理論に沿って考察すると、彼・彼女らの営みや文化はしばしば排除の対象として解釈されつつあることから、社会的支配との衝突を余儀なくされるということが理解できます。また、その衝突が継続的に続くことから「通念とはズレている」という点で、非通念的下位文化に属していると言えるわけです。
しかし、スケートボーダーのようなストリートを舞台とする身体を非通念的とする場合、フィッシャーの『下位文化理論』を参照しつつも、その非通念性をエスノグラフィックかつ政治的に解釈する必要があると考えました。つまり、ストリートでの営みや文化の政治性を示し、より具体的な社会的位置づけを確立する必要があるということです。なぜなら、これらの行為は単なる逸脱ではなく、現代の合理的に秩序づけられた都市に対する生きられた批判だからです。
こうした生きられた批判には明らかな優位点があります。それは、何にも囚われていない批判は今ここでの現在を自由に批判することができるということです。つまり、彼・彼女らの営みや文化は、都市のあらゆる空間を流用することによる分散的かつ流動的な抵抗であり、故に散漫に(派生する結果として)政治化されると言えるわけです。
これらの考察から、主要文化にまとわりつくオルタナティブ(Alternative)な身体であり、ストリートを比喩とする流動的(Fluid)な身体
「オルト・フルーイディティーズ(Alt Fluidities)」
という存在が誕生し、計画は、彼・彼女らの切実な声の代弁を試みるという方向へシフトしていきました。
「オルト・フルーイディティーズ」はいつの時代も社会的支配と衝突し、批判的・身体的実践としての抵抗を続けてきました。すなわち、メインストリームとされる社会が光であるとするなら、「オルト・フルーイディティーズ」の身体はどこかに光が当てられた結果として生まれる影の身体であり、両者の関係は無くなることのない因果関係にあると言えるわけです。
つまり、彼・彼女らが続けてきた営みや文化は抵抗の伝統であり、生きられる身体としての自身の尊厳を問うオルタナティブなエネルギーの表出だということです。
vol.1はここまでにします。最後まで読んでいただきありがとうございました。
vol.2では、これらの分析や考察から得た情報をもとにより具体的な計画についての内容を書きたいと思います。
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