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自分の力で熱狂したい

10日間にわたるプログラムの研修が続いている。今は、ちょうどその中間時点。昨日、社長に対して中間プレゼンをした。個人としてもチームとしても多くの反省点があり、改善していかなければいけない。

ところで最近、なんのために研修を頑張っているのかわからなくなる。自分が優秀という評価を得るため?チームで成果を出すため?クライアントの望みを叶えるため?ユーザーの痛みを解消するため?本音を言うとおそらく、「チームで成果を出すため」あたりになると思う。そのために、チームに貢献し、ものづくりにコミットしている。お互いにある程度は言いたいことを言い合える関係が築けているし、このままいけば、それなりのものができる気がしている。


しかし、腹の底からくる使命感というか、悶々と沸きたつ情熱がない。

九大美女図鑑のときは、まさに「やりたいから、やってた」という感じがあった。人格も能力も今よりひどくて、すぐに人のせいにして、ひたすらに愚痴を言っていたような気がする。険悪になったり、チームに嫌われたりしたとしても、俺がやりたいからやっていた。チームがどうなっても、俺はやりたかった。俺がやりたいんだけど、一人じゃ出来なくて、そのためにチームがあった。そのためにチームに向き合ってチームで成果を出す必要があった。チームで仲良くしたいわけでも、打ち上げのビールをうまくするためでもなく、ただ個人的にやりたかった。


会社の今の研修を終え、社会人として仕事をするようになると、きっとそうもいかない。自分がやりたいことだけをやれるわけではない。もちろん、今のこの環境は自分が選んだ環境で、心から納得して選んでいる。が、心底やりたいことばかりが溢れかえっているわけではない。

しかし思えば、九大美女図鑑のときもそうだった。美女の撮影も、撮影場所の調整も当日の販売も、心底やりたいかと言われたらそうではなかった。活動のほとんどは雑務で、正直面倒くさかった。雑務なんかやりたくなかったから、理由をつけて人に押し付けた。人もやりたくないからお互いに押し付けあっていた。そんな雑務はやりたくなかったけど、だけど、大きな意味ではやりたかった。「やりたくないこと」でも、「大きな意味でやりたいことのためにやらないといけないこと」だったから、結局はやりたかった。寝ても覚めても無我夢中で雑務をやっていた気がする。

あのときの「大きな意味でやりたいこと」ってなんだったんだろうか。うまく言葉に出来ないが、なんか自分が社会になにか影響を与えていて、人々の感情を震わせている感じがたまらなく楽しかった。Twitterでエゴサしたり、販売当日のお客さんの表情を見たりするのがたまらなく楽しかった。志と呼べるほどたいそうなものではなかったが、俺はとにかくそれに熱狂していた。


今はそうではない。考えようと思って考え、行動しなきゃと思って行動している。腹の底からではなく、頭の中から突き動かされている。けど俺は、どうせやるなら熱狂したい。情熱があふれ、楽しくて楽しくて仕方ない仕事をしたい。そして、今の仕事がつまらないとか環境が悪いとか言って腐りたくない。自分の力で熱狂できるようになりたい。自分への使命感は自分で与えたい。





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