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The Last Tune:現存在の遺作

ーー明日世界が滅ぶなら、最期にどんな曲を遺したい?ーー

 唐突にそんな問いかけがーー矛盾した問いかけが脳裏によぎる。自身の肉体の死であるならば、それは去りゆく世界へと手向けられた遺作と呼べよう。しかし、その世界ごと滅亡するというのなら、何も遺りはしないではないか。
 ただ、取るに足らない、バカげた空想と自らを鼻で笑うには、僕は生真面目過ぎたのだろうか。それは何か重要な問いかけに思えてしまったのだ。僕はどんな曲を、何のために遺すのかをしばし考えてみたくなった。

 僕にとって、音楽とは常に彩られた言葉であった。ある時は青春の憂いの呟きとして、ある時は甘い愛の囁き、またある時は世の不条理への嘆き、存在への慰めとして。兎に角それは世界の何処かに胸中を曝すものであったはずだ。そうすれば誰かが聞いてくれるかもしれないという淡い希望を抱いたことも、手紙のように宛名を刻み届けたことさえある。
 言葉を届ける対象が、それを媒介する世界ごと消え去るならば、その言葉は一体何に差し向けられると言うのだろうか。
 否、そのとき言葉は、音は、もはや届けるものではなく、ただ発するためのものに他ならない。それなら僕は、最期に何を発して消えたいと願うのだろう。

 当然ながら、その最期とは自己の死であり、僕という存在、その当事者であることの終焉を意味する。僕が復活でもしない限り、それはこの人生において一度しかない重大な出来事だ。
 終末を目前に、我が人生の回顧録を描くか。世界が残り、僕だけが終わりを迎えるならそれも良いだろう。僕の人生を世に刻むことができるから。しかし、それを残す世界もないのなら、なんだか勿体なく思えてしまう。
 何故勿体ないのか、それは僕にとって過去とは、過去の自分も含め他者であるからだーー既に当事者として関与できないという意味において。自己が消失するその寸前に、何をわざわざ過去なる他者についての記録を残そうというのか。
 それならいっそ、僕は最後までこの「自己」にしがみついていたい。今ある「自己」を最期まで謳歌したいのである。「死」すなわち「自己の消失」を眼前に、その時己が感じるものを、思うことをただただ書き続けていたい。

それが僕の、自己に自己として関与できる存在としての、そしてその特異な存在様態への永訣のための、最後の作品となるだろう。

 



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