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【楽曲解題】凡夫哀経

 はじめに

 新曲「凡夫哀経」について、歌詞に込められた意味や作曲上の工夫について書いていきます。
 通常、僕は自分の楽曲の中に伝えるべき事柄は全て込めているので、後は好きに解釈して頂けたらいいと思っています。ただ今回は宗教用語や宗教音楽の理論を使っていたりするので、前提知識の補足説明として珍しく解題をしてみます。

  • 歌詞本文

  • 動画リンク


 タイトル:「凡夫哀経」に込めた意味

 まず、この曲のコンセプトとタイトルの説明です。「凡夫」とは仏教用語で、ざっくり言えば悟りに至れぬごくごく普通の人を、つまり俗世の一般人のことを指します。
 本楽曲では、キリスト教と仏教の教えを対比しながら、そのいずれにも到達しきれない一般人の悲哀を描いています。タイトルは「般若心経」を文字って、そんな凡夫のための哀しき経典という意味を込めています。

一番:キリスト教の説く「隣人愛」と寛容の精神

 まず、イントロはキリスト教の祈りの言葉である「Amen」から始まりますが、ここの和声は讃美歌等の最後「Amen」の部分で用いられる「Ⅳ→Ⅰ」の終止(アーメン終止)にしています。
 キリスト教では、「隣人」への愛を重要なものとしています。ここでいう「隣人」とは文字通りのお隣さんだけではなく、身内などの小さな範囲を超えた、「他者」一般への愛とされています。キリスト教の信仰では、神は人々に分け隔てなく無償の愛「アガペー」を注ぐとされており、それに倣って信徒も広く人を愛そうね、という訳です。
  また、キリスト教では他者の過ちや悪に対しても寛容であることを説きます。以下の有名な文言は一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

マタイによる福音書5章38-39節

二番リフ部分:般若心経とラーガ

 二番は仏教の教えに移り、仏教用語のオンパレードです。
 まず、「般若心経」の次の一節を繰り返します。ちなみに、この時伴奏では木魚っぽい音を意識してウッドブロック系のシンセサウンドを左側で鳴らしています。

色即是空 空即是色

漢訳「般若心経」

 「色」とは、様々な現象、現れのことであり、「空」とは虚であること、実体がないことを指します。したがって、様々な現象には全て実体などなく、実体のないものが多様な現れ方をしているに過ぎない、というのがこの一節の意味するところです。
 僕の解釈も足して更にかみ砕いて言うなら、「この世に絶対的なものはない」、「あらゆる苦しみの原因も実体などない」。視野を広げて目の前の問題に囚われないようにするための教えだと僕は考えています。
 さて、次に謎の言語が登場したかと思われますが、これはサンスクリット語/梵語といって古代のインドで使われていた言語です。動画上では古代の梵字ではなく現在もインド系の言語を表すのに用いられるデーヴァナーガリーで書いています。ちなみに、般若心経の「般若」というのもサンスクリット語のprajñā(プラジュニャー)の音訳で「智慧」という意味です。

परसंगते बोधि सवाहा
parasaṁgate bodhi savāhā
波羅僧羯諦 菩提娑婆訶

Greenwood Office, "Seven Mile Beach File"
https://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/core/memodata/300/m361.htm
より一部抜粋

 これは般若心経の最後にある文言で、漢訳版にも音訳で掲載されています(音訳のため漢字を見ても意味不明)。元のサンスクリット語の発音は「パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」ですが、漢訳版を日本語風に読むと「はらそーぎゃーてー ぼーじーそわかー」となります。中国語を挟んでサンスクリット語の音を模しているので大分変化していますね。
 直訳すると「完全に行った者よ、悟りに幸あれ」ということです。解釈が色々あるそうですが、僕は「(悟りの境地)に到達した者よ、悟りよ、万歳!」という解釈が一番しっくりきます。つまり仏教の教えに沿って真理に到達した者を称える部分ですね。
 音楽的には、この真言を唱える部分のメロディーはインドの「バイラブ・ラーガ」の音階に則っています。「ラーガ」については、日本在住のインド人の方が分かりやすく説明しているので引用して紹介します。

ごく簡単に言うと、「ラーガ」は音階(スケール)に似たような概念です。1オクターブに12ある音の中から特定の音だけを選択して得られる「音楽のテーマ」ともいえるものです。音楽には感情を引き出す、または感動させる力がありますが、音階によって、引き出せる感情や作り出せる雰囲気が違うと思います。例えば、以下三つの音階を聞いて、どんな気分になりますでしょうか?

クリックして聞く:ビラワル(Bilawal)音階 (すべて自然音)

クリックして聞く:カフィ(Kafi)音階(3 度と 7 度がフラット)

クリックして聞く:バイラブ(Bhairav)音階 (2 度と 6 度がフラット)

私には、ビラワルが明るく、カフィが物懐かしく、バイラブが厳粛に聞こえます。

Sadhana「インド人が語るインドのいろいろ」
https://ameblo.jp/raag-hindustani/entry-12766309173.html

ただし、単純なスケールと「ラーガ」が異なるのは、厳密には特定の季節、時間帯、目的などに応じて適切なラーガが決まっている、という点です。今回、僕も季節や時間に沿うほど徹底している訳ではないですが……インド人のSadhanaさんも、バイラブには「厳粛」な印象を頂くということなので、宗教的な内容に用いるのは適していると言えるでしょう(現地の方の感覚大事!)。

二番:仏教における四苦八苦・四諦

 仏教においては、先の般若心経にも見られたように、この世で生きる上での様々な苦しみ「四苦八苦」とその原因をよく理解し、苦から離れること、苦の無限ループから外れること、「解脱」(げだつ)を至上の目的としています。
 解脱に至るプロセスとして、「四諦」(したい)という四つの真理を理解する必要があるとされています。浄土宗大辞典では四諦について次のように説明されています。

四つの真理。苦諦集諦じったい・滅諦道諦のこと。Ⓢcatvāry āryasatyāni。四聖諦ともいう。四諦は、人間の生存を苦と見定めた釈尊が、そのような人間の真相を四種に分類して説き示したもので、釈尊初転法輪で説いたとされる教説の一つであり、仏教における重要な教理である。諦とはⓈsatyaⓅsaccaⓉbden paの訳であり、真実、事実、真理を意味する語。
苦諦Ⓢduḥkha-satya。人間の生存が苦であるという真相。苦聖諦ともいう。人間の生存は四苦八苦を伴い、自己の生存は、自己の思いどおりになるものではないことを明かす。
集諦Ⓢsamudaya-satya。人間の生存が苦であることの原因は、愛にあるという真相。苦集聖諦ともいう。この愛とは、渇愛といわれるもので、ものごとに執着する心であり、様々なものを我が物にしたいと思う強い欲求である。このような欲求に突き動かされて行動することが、苦の原因であることを明かす。
滅諦Ⓢnirodha-satya。苦の原因である渇愛を滅することにより、苦がなくなるという真相。苦滅聖諦ともいう。渇愛を滅することで、生存に伴う苦しみが止滅し、覚りの境地に至ることを明かす。
道諦Ⓢmārga-satya。渇愛を滅するための具体的な実践が八正道であるという真相。苦滅道聖諦ともいう。渇愛を滅し、苦である生存から離れるために行うべきことが、八正道であることを明かす。釈尊は極めて現実的な教えとして、これら四諦弟子たちに示した。

「新纂 浄土宗大辞典」
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

簡潔に言えば、
①苦諦:世の中は自分の思い通りにならない苦しみに満ちているという真理
②集諦:ものや人への渇愛や執着(しゅうじゃく)こそが苦しみの原因であるという真理
③滅諦:渇愛を滅することで、苦も滅することができるという真理
④道諦:渇愛から離れ、苦からも離れる上で仏教の実践である八正道を行うべきだという真理
というのが四諦の内容です。

おわりに

 以上で見てきたように、「愛」を広げていくキリスト教、「執着」を捨てる仏教とは全く異なるベクトルに向かっているようにも見えます。三番は二番までの内容を受けたまとめ、曲のメッセージの部分の核にあたるので、ここまでの解説で考察できるものになっています。最早これ以上の解説は野暮というものでしょう。
 さあ、では我々凡夫はどう生きるべきか?貴方はどちらが自分に合う教えだと考えたか?ここから先は皆さんの解釈に委ねたいと思います。

長文を閲覧くださりありがとうございました!



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