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開かれた民主主義とその敵

台湾の民主主義をめぐる家永真幸さんとの昨日のウェビナー(無料部分はこちら)では、色んなことを教えられたので、忘れないうちにメモ。

米国が典型だが、選挙を繰り返すごとに主要政党の主張が先鋭化し、お互いに話しあうことが不可能になっていって、最後は「国をまとめられるのは俺だけだ」式のヤバいポピュリストが出てくる……といった民主主義の悪循環が先進諸国で見られる。対して、最初の総統選挙が1996年という「民主主義の後進国」だった台湾は、(むろん政党間の対立はあるが)いまも穏健で調和した政治を営んでいるように見える。

その理由として、一党独裁時代の国民党が38年間にわたる戒厳令(解除は1987年)を敷いていた冷戦下の、ネガティブな記憶がいまも広く共有されている点が大きいというのが、家永さんのお話だった(著書にも書かれている)。ここで重要なのは、そうした状況では「誰もが」政権に迫害される被害者になり得ると同時に、隣人を見殺しにしてしまう加害者でもあり得たという両義性だ。

自分自身にも加害性(少なくとも共犯性)があると自覚するとき、人は対立相手を「全否定」する態度からは自然と距離をとる。いま執政する民進党は、戒厳支配と戦った民主化運動の担い手が作った政党だが、一方でそれが錦の御旗として絶対視され「恒久政権」のようになるなら、かえって腐敗するだろうといったバランス感覚も台湾の有権者にはあるらしい。

ここでよく考えると、誰もが「被害者であると同時に加害者」という構図自体は、戒厳令下の異常な社会に限られない。たとえば二酸化炭素を排出しないで生きている人はいないので、世界中で話題の気候変動問題は、誰もが「被害者であり加害者」だ。

あるいは能力主義(メリトクラシー)で社会を運営するかぎり、そうした性格は必ずついて回るよねというのは、『危機のいま古典をよむ』に収めた苅部直先生との対談でも、私が喋っていたりする。

同じ社会で生きる以上、本当はどんな人にも加害者性と被害者性の双方があると思うんです。……たとえば「能力の格差」はゼロにできない以上、メリトクラシーの下で競争に勝ち続けること自体にも「そうできない弱者への加害行為だ!」と言われてしまう側面が常にある。

『危機のいま古典をよむ』160頁

おそらく問題は、そこで「これさえやれば、あなたが持つ加害性は消失して純粋な被害者の側になり、加害者として糾弾される恐れはなくなりますよ」として、免罪符を売り込む人たちが出て来ることだろう。

たとえばキリスト教の教えに従うと、人間にはみな原罪があるのだが、原理主義化したヤバい教団は「われわれに帰依すれば罪を感じなくてよくなる。そうなりたければ、行動で忠誠を示せ」として信者を勧誘する。傍から見る分には単なるトンデモな行為(多額の献金だったり、街頭での変なパフォーマンスだったり)でも、信徒になると大まじめにやってしまうのだ。

笑い話ではなくて、美術館の絵をスープで汚して来場者に不快な思いをさせることは、地球温暖化を緩和することになにひとつ益さないが、「これをやれば君の(地球への)加害性は消える」としてカルトの信者に課す、通過儀礼の役割は果たす。別にバカな人だけが騙されるのではなく、そうした行為を称揚する大学の学者もいまは普通にいたりする。

もっと一般的に見られるのは、「共犯者が『加害者』を率先して過激に叩くことで、あたかも純粋な『被害者』の一人であるかのような地位を得る」現象だろう。長年、ジャニー喜多川氏の行為を黙認してきたメディア関係者ほど、記者会見で怒号をあげたりして「私は被害者サイドです」とPRするのは一例だ。

だから、健やかで多様性に開かれた民主主義の敵は「免罪符売り」なのだろう。私についてくれば、あなたがいま抱えている後ろめたさは消えて、一切批判される恐れのない側に渡れますよ――といったふるまいを示す有識者を見かけたら、距離をとって逃げることがなにより重要だと思う。

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